太宰治「海」
»〈ふたり〉へ太宰治と美知子―青森・深浦/甲府
南側に富士山、西側に南アルプスを望む盆地の端。昼間の日差しはきついが、朝晩そよぐ風はさわやかだ。
 海に沿ったがけの下をJR五能線の列車が進む。冬は厳しい日本海も、夏は穏やかな顔を見せる=青森県深浦町で
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 観光列車「リゾートしらかみ」から夕日を眺める。乗客から歓声が上がった=青森県深浦町で
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 旅館のたたずまいを残した「ふかうら文学館」=青森県深浦町で
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 結婚してまもないころの太宰治と妻の美知子
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JR甲府駅北口から歩いて20分ほどの住宅街に「太宰治僑居(きょうきょ)跡」の碑が立つ。ここで太宰と妻、美知子が1939(昭和14)年の約8カ月間、新婚生活を送った。
太宰は夏目漱石と並ぶ国民作家である、と断定すればあるいは異論が出るだろうか。新潮文庫の今年3月末までの発売部数トップは漱石の「こころ」、次が太宰の「人間失格」で、10位にも「斜陽」が入る。
批評眼も確かな作家・吉行淳之介の表現を借りると「太宰の作品には、わが国で文学にかかわり合いを持とうとする人間たちの感覚、感受性の原型が、ことごとく含まれているようにおもう」ということになる。
そうした魅力を誰より感じていたのが美知子だった。物堅い秀才一家に育ったインテリ女性と、私生活で問題の多かったマイナー作家。よく一緒になったものだと思うが、美知子は「著書を二冊読んだだけで会わぬさきからただ彼の天分に眩惑(げんわく)されていた」と、著書「回想の太宰治」で明かしている。
ふたりの長女、津島園子さん(65)は語る。「母には自信があったのだと思います。自分なら太宰を支えて、小説家として大成させられる、と」
自殺未遂、薬物中毒、最初の妻との離別と、どん底を見た太宰は再生した。美知子は大酒飲みで大食漢だった太宰の食卓に心を砕き、時には作品の口述筆記も受け持った。
夫婦は甲府から東京郊外の三鷹に移り住み、時代は戦争へと突入する。この間、「富嶽百景」「走れメロス」「駆込み訴え」「津軽」など、後世に残る作品を生んだ。
順調さの陰で、美知子は徐々に、太宰の特異な性格に気づいていた。
結婚直後、太宰に「かげで舌を出してもよいから、うわべはいい顔を見せてくれ」と言われて「唖然(あぜん)とした」と記す。「常識や義理は二の次」で、「甘やかせばキリのない愛情飢餓症」である。複雑で矛盾した性格に、美知子はやがて振り回される運命にある。
45年7月、戦局悪化で再び甲府に身を寄せていた夫婦は、ここでも空襲に焼け出され、2人の子を連れて太宰の故郷・津軽の金木町(現・青森県五所川原市)を目指す。3日間列車を乗り継ぎ、太宰の生家にたどりつく前に日本海に面した深浦町に一泊した。
翌日、近くの海辺で一家は磯遊びを楽しむ。4歳だった園子さんには記憶がないが、太宰は「浦島さんの海だよ、ほら小さいお魚が泳いでいるよ」とはしゃいで見せたという。美知子にとって、透明な幸福感に包まれた大切な記憶となった。ところが――。
この時の体験を下敷きにしたと思われる太宰の掌編「海」を読んで、美知子はやりきれない気持ちになった。
橋をかける言葉探して
秋田県と青森県の日本海側を結ぶJR五能線は、景観に恵まれたローカル線として人気がある。
列車で北上すると、右手の向こう側にはブナ林で有名な世界自然遺産、白神山地が広がる。やがて左手に、水平線が見えてくる。
夕刻、日没の海は格別に映える。
太宰治の掌編「海」はこんな内容だ。空襲から逃れて妻子と生家に向かう「私」は五能線に乗り、幼い娘に初めて海を見せられると張り切るが、いざ車窓に海が広がると娘は「川だわねえ、お母さん」と言い、妻も半ば居眠りしながら同意する。落胆した「私」は一人たそがれの海を眺める。
太宰らしいメリハリの利いたユーモラスな筆致で、あたかも本当の出来事を描いたように受け取れる。しかし、美知子の文章も読むと、分からなくなってくる。
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太宰はこの前の年、「津軽」の取材旅行で深浦に泊まり、兄の縁故がある人の宿で酒食を楽しんだ。わざわざ回り道をして深浦に寄ったのは、入手困難だった酒をそこで飲めると期待したのだろうと、美知子の推測は鋭い。
太宰の小説が「自己中心に、いわば身勝手な主観を書いているので、虚構や誇張がはなはだしく織り交ぜられている」と指摘する美知子は、「海」について「なぜ家庭団欒(だんらん)を書いてはいけないのか」と嘆いている。
小説なら虚構や誇張は当然なのだが、実在の人物を登場させておいて事実と異なる行動をさせる場合があるから、文学はややこしい。太宰の文才を誰よりも知る美知子も、家族の大事な思い出を面白おかしく脚色されたと感じて、我慢がならなかったようだ。
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一家が泊まった深浦の宿は、2年前に「太宰の宿 ふかうら文学館」になった。地方の旧家のような旅館の造りはそのままだ。2階には太宰の泊まった部屋が再現された。窓から、かすかに漁港の香りがする風を感じる。有名な生家の「斜陽館」を見てからこちらに回るファンも増えているという。
文学館の館長、山田邦照さん(68)は深浦の出身で、長く地元の中学で国語を教え、校長も務めた。
「高校生のころ太宰にかぶれて、ずいぶんたくさん読みました。でもだんだん嫌になって、大学以降は見向きもしなくなりました」という。
表現が素直でなくて、何かと大げさで。自分たち津軽人の欠点を拡大して見せつけられたような気がしていた。太宰の生き方への批判も頭にあった。
教員になり、教科書に「走れメロス」などが出てくる。生徒には「青森出身の素晴らしい作家」と教えながらどこか歯切れが悪かった。退職後、この記念館の設立にかかわることになって、読み直してみた。
「やっぱり面白かった。いい作品だなと思いました。とても繊細で優しくて、それを素直に出せないのが太宰という人なんですね」
そう、思春期には太宰の世界に夢中になるが、実社会に出るころ、その甘えがたまらなく鼻につく。年を重ね、自他の弱さ醜さがある程度許せるようになると、太宰の豊かな物語性や文体、人の内面を観察する鋭さが、新たな魅力を放つ――山田さんの話を聞いて、そんなことを考えた。
戦後、時代の寵児(ちょうじ)にのし上がった太宰だが、自伝的な作品「人間失格」を書いてまもなく、自ら人生の幕を引きちぎるように下ろした。美知子はすでに結婚前、太宰の作品を「自分で自分を啄(ついば)んでいるようだ」とも感じたという。太宰の美知子あての遺書に「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」とあるのは、本音と思われる。
そして、遺書の末尾にはこうある。
「美知様
お前を誰よりも愛していました」
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この言葉は、美知子に何よりの救いになったはずだ。同時に、太宰の自分への愛とは何だったのかという宿題のようにも感じられただろう。
その答えを出すために、美知子は太宰の姿と自分の感懐を、研究者のように正確に、丹念に書き続けた。
長女の園子さんは「父の書き損じの原稿一枚でもおろそかにせず保存して、整理していました」と振り返る。97年に85歳で亡くなる直前まで原稿に向かい、死の約半年後、「回想の太宰治」の増補改訂版が出された。太宰を知るのに欠かせない一冊である。
たとえ夫婦でも――いや、夫婦だからこそ痛感する、男女の間の深い溝。そこに橋をかける方法は、言葉を重ねることだけなのかもしれない。
そう言えば太宰も「新ハムレット」に書いている。
「言葉の無い愛情なんて、昔から一つも実例が無かった」
文・及川智洋 写真・嶋田達也
(09/16)
〈ふたり〉
太宰治は大地主の家に生まれ、父や兄は国会議員。弘前高等学校、東京帝大を通じ左翼思想に傾くが、後に離脱。最初の結婚が決まったころ別の女性と心中し、自殺幇助(ほうじょ)罪に問われた(起訴猶予)。その後本格的に小説を書き、1935(昭和10)年の第1回芥川賞の候補になるが落選。薬物中毒が悪化、最初の妻と別れた。38年、文学上の師匠、井伏鱒二の仲介で山梨の地質学者の娘、石原美知子と見合いし、結婚。美知子は東京女子高等師範学校を卒業、都留高等女学校で地理、歴史担当の教諭だった。(写真は三鷹に移った頃のふたり)
戦後、太宰の文名は高まったが、48年、愛人と東京・玉川上水に入り自殺した。
夫婦は3児をもうけ、長男は早世。長女園子さんの夫は津島雄二衆院議員。次女は作家の津島佑子さん。NHK連続テレビ小説「純情きらり」は、石原家をモデルにした佑子さんの小説「火の山―山猿記」が原案。番組では主人公の姉の夫の画家が津軽弁の二枚目。