「台湾外記」
»〈ふたり〉へ鄭芝龍と田川まつ―中国・福建省泉州
長方形のぶ厚い花崗岩(かこうがん)が無数に組み合わされている橋を歩く。長いなあと感じる。2.2キロもあるそうだ。
 はるばる異郷にやって来たまつは、何度この橋を渡ったことだろう=福建省泉州郊外の安平橋で
|
 世界有数の花崗岩産地である泉州近郊から、様々な石細工が輸出されている=福建省泉州市で
|
 芝龍も訪れた市街地の開元寺。お参りの人が絶えない=福建省泉州市で
|
|
 田川まつと鄭成功の像=台南市で
|
いまから360年ほど昔、長崎・平戸島生まれの田川まつも、この長い石畳を踏みしめたことがあったに違いない。安平橋といい、12世紀に造られたという。ここは中国福建省泉州の郊外、安海鎮である。
泉州はマルコ・ポーロの「東方見聞録」でもにぎわいをたたえられた港町だ。アラビア人やペルシャ人が1000年以上も前から訪れ、季節風を利用する帆船で、中国人の勇敢な船乗りもここから大海原に乗り出していった。そうした一人が、まつの夫、鄭芝龍(てい・しりゅう)だった。
ふたりは平戸で夫婦になった。だが一緒に暮らしたのはわずかの間。20代初めのまつを残して、芝龍は日本を離れる。そして瞬く間に東シナ海を股にかける海賊の大ボスにのし上がった。
財力、武力に加えて福建省の政治権力までも手にして、安平橋のすぐ横に城を築いた。そして1645年、まつを呼び寄せたのだという。海を渡って離ればなれだった夫のもとに来た時、まつは40代半ばになっていた。
だが、彼女はここで2年足らずしか生きることができなかった。
時代は大揺れだった。300年近く続いた明朝が滅んだ。代わって北方の遊牧民族、満州族が勢いを増し、福建まで攻め下ってきた。猛攻撃が迫る城で、まつは短刀をのどに突き刺したとも、高い城壁から飛び降りたとも伝えられている。
夫をいさめるために自害したという説もある。芝龍は満州族の清朝に投降しようと考えていた。「明の王にあれだけ取り立てられたあなたなのに」。まつも、ふたりの長男である鄭成功(せいこう)も、芝龍を指弾したという。
中国でも台湾でも英雄扱いされている成功は、近松門左衛門の「国性爺(こくせんや)合戦」のモデルにもなった。日本に援軍を頼んだり、台湾を根城にしたり、「恩義のある明の復興」をめざして必死に戦った若者だった。
それにひきかえ芝龍は裏切り者のダメおやじとみられていた。清側に寝返ったものの、結局はその15年後、北京の近くで首を切られてしまった。
それが台湾でいま、「芝龍とまつ」のドラマ化計画が進められている。
芝龍は、改めて見直すとスター性たっぷりではある。でっかくて、気っぷがよくて、自然に人の輪の中心となっていた男。平戸では宮本武蔵の弟子に剣術を習い、海賊として頭角を現す際の真剣勝負に役立てたという。
まつも大柄だったらしいが、「この世のものとも思えぬたおやかな女人だった」とされ、お互いに一目ぼれだったと言い伝えられている。
「歴史の大波の中で、国なんてお構いなしに結ばれた男と女を描きたい」と、台湾の映画監督、葉金勝さんは、ドラマの狙いを語るのだ。
海賊の心にあったもの
鄭芝龍の故郷、台湾海峡に面した石井鎮に行く。息子をたたえる「鄭成功記念館」には、中国にとって「台湾統一」の守り神のような存在でもある成功の巨大な像がある。だが、芝龍については肖像画ひとつ見当たらない。
「儒教の忠君愛国の教えをないがしろにした存在だからなあ」と、湯錦台さん(61)が、影の薄い理由を説明する。湯さんは台湾出身。74年からニューヨークの国連本部で働く傍ら、大航海時代の東シナ海を研究してきた。台湾の大手テレビ局「民視」が企画し、来春から撮影に入る「芝龍とまつ」のドラマ(全30回)の顧問役でもある。
芝龍の伝記も書いているが、その際清朝初期の「台湾外記」を頼りにしたという。鄭成功軍で戦った父を持つ人物が様々な伝聞をまとめた本だ。
「外記」には少年時代の芝龍について「自由気ままで、読書を喜ばず、けんかを好んだ」とある。「読書」とは儒教の教えを身につけること。そんなものクソ食らえという、生きのいい不良の姿が浮かんでくる。
♪ ♪ ♪
何度も訪れている泉州について、湯さんは最近、変化を感じるらしい。
民間の郷土史ファンが増えており、いま石井近辺だけで自称「研究者」が200人いるという。そうした彼らが「ひょっとしたらお宝が見つかるかも」という山っ気に動かされて、建築現場などで見つかった史跡の由来を熱心に調べている。
福建南部を自分の王国のようにした芝龍が、あちこちに建てた石碑も発掘されている。目立つのは「親しい者の死を悼む碑」という。
幼いころ世話になった伯母の死を悼む言葉を刻んだ御影石の碑を、石井で私も見せられた。地元研究者のリーダー格、許慶芳さん(47)は「芝龍が清朝に北京で軟禁されている時、刻む文言を秘密ルートで福建まで伝えた」と話す。化学工場の拡張予定地で見つかった、戦闘で没した部下のために建てた墓石跡にも案内された。
「情け深い男だったんだと思いますね」とは、許さんたち地元の人たちの鄭芝龍見直しの弁である。
♪ ♪ ♪
元々「台湾外記」や、もっと正統的な史書である「明史」関連書にも、「金持ちからは金品をとりあげたが、貧しい者には逆に施しを与えた」などと、「情け」を示す行動は記されていた。「清朝への寝返り」についても、湯さんはこうみる。
「自分の力が清にも重んじられるはずと思ったことは間違いない。と同時に、滅びた明にいまさら忠義だてして、部下の血をこれ以上流すことはできないと考えたのだろう。海賊の争いでたっぷり血を見てきた男だから」
当時の海賊は、鉄砲や火矢、大砲での武装を忘れない海洋商人といってよい。オランダなど西洋人の船や中国人、日本人の乗った船が行き交う大海原は、見知らぬ船同士の争いがいつ起こるか分からない無法地帯だった。
日本を離れてわずか3年で芝龍は1000隻近くを配下に収め、オランダ船団との海戦で勝利するほどになる。「先輩格の海賊を殺して勢力を一挙に手にした結果」という見方もある。多すぎる血を見た時期だったかもしれない。
けれど、芝龍は暴力よりも才覚で力を伸ばすようになった。東シナ海を通る船から、安全な航海を保障する代わりに通行税を取った。中国の生糸や絹織物の日本への運搬も、大多数が彼のかかわる船となり、手元にざっくざっくと富が入ってくるようになった。
夫が出世する間、まつも平戸やその後に移住した長崎で、ただ寂しく過ごしていたわけではないようだ。湯さんは「芝龍の船の運ぶ品物の商いにかかわっていただろう」とみている。
♪ ♪ ♪
泉州一帯は、花崗岩や大理石の産地でもある。海のすぐそばまで迫る小高い山の多くはごつごつした岩肌。掘り出された石材があちこちで加工され、粉塵(ふんじん)が街を舞っている。そのせいか、海に面しているのに、どこか乾いた土地だという印象が強い。
夫と息子のいるところとはいえ、300年以上前に日本の潤いを捨ててここに来たまつを、たいしたものだと素直に思った。折から鎖国政策が強まっていた。故郷を出たら、二度と戻ることはできない旅なのだという覚悟も、彼女にはあったに違いない。
儒教の伝統秩序に背を向けて、己の力と才覚だけを頼みとした芝龍も、当然、人並み外れたパワーや感情の持ち主だった。17世紀の東シナ海で偶然に巡り合った強い男と強い女の物語。それが「芝龍とまつ」なのだろう。
監督の葉金勝さんたちは日本でのロケも予定している。物語は冒頭、まつと平戸で出会って柄にもなく悶々(もんもん)とする、若い芝龍の姿から始まるという。
文・永持裕紀 写真・水野義則
(10/07)
〈ふたり〉
鄭芝龍は泉州の下級官吏の息子に生まれたが、親類には船乗りや海洋商人が多かった。10代の終わり、一説によれば父の愛人と関係ができたことがばれたため故郷を飛び出した。明朝は鎖国に似た「海禁政策」をとっており、いったん外に出ると中国国内への帰還が難しかったため、平戸に居着いたと思われる。
当時の平戸は、オランダ商人や中国の商人、船乗りを藩主の松浦氏が保護していた国際都市だった。芝龍は外国語の才能に恵まれ、ポルトガル語、オランダ語のほか日本語もあっという間に覚え、松浦氏に中国のほか、台湾やフィリピンなど南海の情勢を伝えていたという。
田川まつは平戸の武士の娘だったとされるが、「そのルーツが100%解明されているわけではない」(平戸市役所)。ただ、まつが鄭成功を産んだとされる「児誕石」や、「鄭成功居宅跡」など関連史跡が平戸に数多く残っている。
7歳で泉州に渡った成功は儒学の勉強に熱心に励んだため、父の芝龍とはまったく考えが違ってしまったという。