「日本百名山」
»〈ふたり〉へ深田久弥と志げ子―石川・大聖寺、白山
雲上のかなたは、びょうぶのように連なる荘厳なパノラマだった。
 白山が薄く雪化粧した。里から真っ白な姿が望めるのも、もうすぐだ=岐阜県側上空で、本社ヘリから
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 深田が志げ子と出かけた雨飾山=長野県小谷村で、全日本山岳写真協会・小沢正美氏撮影
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 絹織物工場を改装した「深田久弥 山の文化館」=石川県加賀市で
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 深田久弥と志げ子、長男の森太郎。出征記念に撮影した
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北東から南側へ展望をめぐらすと、剱(つるぎ)岳、立山、槍(やり)ケ岳、穂高岳、乗鞍岳、御岳と北アルプスの山々がくっきり見える。金沢市から来た63歳の男性にコーヒーをごちそうになりながら、心地よい疲労と達成感に浸った。
深田久弥の「日本百名山」に87番目に登場する白山は、「仰いで美しいばかりでなく、登っても美しい山」だと書かれている。私は、百名山では初級の山を六つしか登ったことのない初心者だが、秋晴れの一日、中級に分類されるこの山を思い切って登ってみた。
午前7時20分、南麓(なんろく)の別当出合(であい)(石川県白山市)。「霊峰白山登拝道」とある標柱わきの鳥居をくぐって出発した。室堂平に出ると、宿泊棟は2週間前に営業を終え、既に冬支度。道理で下りてくる人には出会わなかった。登り始めて3時間半、最高峰の御前峰(ごぜんがみね)(2702メートル)に立つことができた。
近年の登山ブーム、特に中高年が山を目指す背景に、1964(昭和39)年出版の「日本百名山」(新潮社)がある。深田がすべて頂を極めた山の中からえりすぐった百山だ。選定基準は「品格」「歴史」「個性」。「山高きをもって尊しとせずだが」と断りながら、標高1500メートル以上も一応の基準とする。一山につき原稿用紙5枚、それ以上は「だれるから」と嫌った――簡にして要を得た山岳随想を集めた古典的名著である。
深田は東京帝大在学中の27(昭和2)年、24歳で改造社に採用された。翌年、懸賞小説に応募してきた北畠八穂という女性に心ひかれる。青森市生まれの八穂は青森高女から実践女学校(現実践女子大)を中退。青森県内で代用教員をしていたが、脊椎(せきつい)カリエスが悪化して退職し、自宅でふせっていた。深田が手紙を出して青森まで会いに行ったのをきっかけに、11年間の同居生活の末、40年に正式に結婚する。
深田の初恋は、20歳の時だった。ある秋の日、一高生の深田は東京・本郷通りで、聡明(そうめい)そうな一少女に目をとめる。菊と蘭(らん)の記章がついた焦げ茶色のバンドを締めた、東京女子高等師範付属高女(現お茶の水女子大付属高)の女子学生。通りですれ違うたびにひかれていったが、それだけだった。
運命のいたずらのような再会は、18年後の41年――深田がようやく八穂と結婚した翌年のことだった。文芸評論家の中村光夫(本名・木庭(こば)一郎)の結婚披露宴の席。かの女学生の名前は木庭志げ子といい、中村の姉だったのである。深田は、志げ子と初めて言葉を交わしたこの時のことを、「わが青春記」(52年)で「一高時代の私の風貌(ふうぼう)を彼女は細かな点までおぼえていた。まことにこの世は偶然なものである」と回想し、こう記している。
「この偶然が私の後半生を支配するようになろうとは!」
ふるさとで雌伏の8年間
北畠八穂と知り合って1年後の1929(昭和4)年、深田久弥は「津軽の野づら」を発表。「オロッコの娘」が文芸春秋で採用され、文壇で注目される。32年には「あすならう」。翌年には神奈川・鎌倉へ移り、久米正雄、今日出海、小林秀雄ら「鎌倉文士」の仲間入りをした。互いの家に出入りした文士仲間は「深田の作品には八穂が関与している」と薄々感づいていく。
35年、深田は小説集「津軽の野づら」の単行本化でこんな弱気な調子の後書きを記す。「この幼い物語が、批評家の剛い手にかかることなく、ただ少数の人々にのみ愛されんことを」。すべてを見抜いていた友人の小林は朝日新聞紙上で厳しく評した。「何というおづおづした手付きで、作者は自分の青春の書を世に送り出しているか。そして、そういう手つきは、この作者一人の手つきではない」
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川端康成も看破した。37年、「鎌倉夫人」の朝日新聞への連載が決まった直後のことを八穂は回想している。
「庭から茶の間に入ってこられた川端さんが、『これくらいの連載は、スケッチをするつもりで』と、聞かして下さいました。私は慌てて、『こんど当人に、そうおっしゃって下さいまし』と、頼みました。川端さんは頭を振り、『あなたにそういっとけば』と微笑してさっと帰られました」
八穂との「二人三脚」――。「深田久弥 山の文学全集」(朝日新聞社)の編集委員だった近藤信行・山梨県立文学館長(75)は「深田さんは『津軽の野づら』から『あすなろう』へ、八穂さんの文体で通している。旧制高校出らしくバンカラなところもあり、鉄面皮と言えばまことに鉄面皮」としながらも、「深田さんは文壇へ出るのに焦っていた。八穂さんも、深田さんのために仕事をした、という部分が見える」と分析する。
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その一方で深田は、41年に志げ子と再会した翌月にはもう、山行へ誘う。百名山の一つ、新潟・長野県境の雨飾(あまかざり)山(1963メートル)。長野側から登ろうとして雨に降り込められ、ふたりは小谷(おたり)温泉の旅館に4日も滞在する。
再会から1年余りで男子が生まれ、八穂も知るところとなった。夫婦の冷戦状態は深田の応召で中断したが、46年に復員した深田は、八穂のいる鎌倉へは顔を出した程度で、すぐに志げ子が疎開していた新潟・越後湯沢に合流した。翌年には八穂と離婚し、志げ子と結婚。一家は深田のふるさと石川・大聖寺(加賀市)に身を寄せた。
そのころ八穂は深田との合作について、鎌倉を人力車で出歩いては、文士仲間にすべてぶちまけていたという。
夫婦でいれば済まされたことが、別れたことで表面化し、戦前の名声も打ち砕かれた。深田は文壇に背を向け、ふるさとでの隠遁(いんとん)生活を強いられる。地味な短編を書くが、鳴かず飛ばず。「百名山」にこんなくだりもある。
「戦後私はふるさとに帰って三年半の孤独な疎開生活を送ったが、白山はどれほど私を慰めてくれたことか」
金沢に移って4年余りを過ごした後の55年、8年間の充電を終えた深田は、ついに上京を決意する。「自分には好きな山しか道はない」と山の文学者として再生を期すのだ。
志げ子の献身ぶりは見事だった。長男で日経広告研究所顧問の深田森太郎さん(64)によると、当初こそ「私と一緒になってからちっともいいものを書いてくれない」と嘆いた。「志は高く、暮らしは低く」が深田のモットーで、稼ぎは本や資料代に消える。志げ子は丸善から請求書が届くたびに「こわいこわい」と言いながら開封したが、深田が頼んだ洋書が入荷したと聞けばたとえ重くても抱えて帰り「またこれを使って稼いでね」と励ました。
新潮社の編集者だった佐野英夫さん(84)によると、百名山の単行本化を持ちかけてから間もなく、「そんな話は簡単にはいかないから信用するなよと弟(中村光夫)が言うんです」と志げ子は笑っていたという。
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「山と高原」に59年から連載された「日本百名山」が本になり、64年の東京五輪のさなかに出版記念会も開かれた。同席した志げ子の感慨が「『日本百名山』余話」でつづられている。
「内助の功?とやらで私にも出るようにとの有難(ありがた)い思召(おぼしめし)。晴がましい席へ急ぐ私の胸には多少の感慨があった」
深田は71年の春分の日、登山中に脳卒中で急死。志げ子は7年後、交通事故に遭ったのがきっかけで死去した。
八穂は離婚後、児童文学者として活躍。健康に恵まれなかった八穂が、78歳と3人の中で最も長生きをした。
偶然の再会が、山の文学者・深田久弥と児童文学者・北畠八穂を生んだ、と見ることもできる。
文・小西淳一 写真・永曽康仁
(11/25)
〈ふたり〉
深田久弥は1903(明治36)年、石川県大聖寺町(現加賀市)生まれ。小学生のころから「食事の時くらい本を伏せろ」としかられるほどの本好きで、福井中学在学当時には30キロ余りを歩いて帰省した健脚でもあった。東京帝大文学部哲学科在学中から改造社編集部に。懸賞小説の下読みをしていて応募者の北畠八穂(本名・美代)に興味を抱き、「私流の結婚」と呼んだ同居が始まって間もなく「津軽の野づら」で文壇デビュー。結婚に反対だった父の死もあって、40(昭和15)年に正式に結婚する。
木庭志げ子は一高生当時の深田が通学路であこがれた「マドンナ」。再会して間もなく愛し合うようになり、長男・森太郎(しんたろう)が生まれる。写真は、八穂という正妻がいながら深田の出征前に写真館で3人で撮影した。
八穂は戦後、「十二才の半年」などで作家として注目され、児童文学者として「鬼を飼うゴロ」(野間児童文芸賞)などの作品を残した。