「永訣の朝」
»〈ふたり〉へ宮沢賢治とトシ―岩手・花巻
(あめゆじゆとてちてけんじや)
 「海だべがど、おら、おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい/ホウ/髪毛 風吹けば/鹿(しし)踊りだぢやい」(「高原」)。鹿踊りは死者を供養する念仏踊り。賢治の詩や童話にも登場する。村の鎮守に奉納される鶴羽衣(つるはぎ)鹿踊り=岩手県奥州市江刺区で
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 「銀河ステーシヨンの遠方シグナルも/けさはまつ赤(か)に澱(よど)んでゐます」(「冬と銀河ステーシヨン」)。銀河鉄道のシンボル、釜石線の宮守めがね橋を列車が渡る=岩手県遠野市で
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 「……梵字と雲と/みちのくは風の巡礼……」(五輪峠先駆形A)。峠の五輪塔のの周りでは、風に落ち葉が舞っていた=岩手県花巻市東和町で
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 宮沢賢治と妹のとし子=林風舎
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初冬の一日、岩手・新花巻駅に向かう東北新幹線の車中、一つの言葉が頭の中でいくども響いた。中学校の国語の時間に、教師が朗読した独特の抑揚もそのままに。その授業で出会って以来、宮沢賢治の名を聞くといつも、妹トシの、この最期の言葉が浮かぶ。
(雨雪=みぞれ=をとってきてください、賢治兄さん)
1922(大正11)年11月27日午後8時30分、宮沢トシ死去。24歳。
賢治は押し入れをあけて頭をつっこみ、おうおう泣き……ひざにトシの頭をのせ、乱れもつれた黒髪を火箸(ひばし)でゴシゴシ梳(す)いた(堀尾青史編著「宮澤賢治年譜」筑摩書房)。
そして、トシの最期の言葉を引いた「永訣(えいけつ)の朝」をはじめとする詩群「無声慟哭(どうこく)」を、一気に書き上げる。
それでも思いは治まらない。翌年の夏、青森・北海道からサハリン南部を巡る旅で、亡き妹の姿を探し求める。さらにこのころ、知人らに配ったとみられる「手紙」に、こう記す。
――どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つてゐるかたはありませんか。チユンセがさつぱりごはんもたべないで毎日考へてばかりゐるのです――
ポーセ=トシの行方を探る旅は、賢治が終生推敲(すいこう)を重ね、ついに未完に終わった「銀河鉄道の夜」まで続いた。
新花巻駅から西南へ。急な車道を歩いて、胡四王山(こしおうざん)に登る。標高200メートルにも満たないが、緑に囲まれたこの小さな丘の中腹に、宮沢賢治記念館は立つ。ガラスケースの中に、賢治愛用の「セロ」と並んで、トシのバイオリンが陳列されていた。公開されているトシの唯一の遺品である。
「女学校へ入ってからも学校始まって以来という、平均点が95点とか8点とかのすばらしい成績をとるので、町でもたいした評判になっていたものです」「容貌(ようぼう)もやさしくにこやかで、だれに向かっても親切でていねいで、ものを話すときの声も、実に澄んでいてきれいな人でした」
トシと小学校で同級生だった関登久也が書き残している(「新装版宮沢賢治物語」学習研究社)。
今では誰もが知る詩人・童話作家の妹とはいえ、若くして亡くなった女性が残した品は多くない。直接知る人の証言も限られる。聖女のような面影ばかりが、後世に刻まれる。
「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」(「無声慟哭」)だったにしても、なぜ賢治は狂おしいまでに、その死を思い詰めたのか。
妹の素顔を探ってみたい。
トシの生涯に向き合った一つの研究に導かれて、盛岡市に向かう。ガラスの壁面が斬新な岩手県立図書館。ここのマイクロフィルムに収められた古い三面記事に、思いがけないトシの初恋と、修羅(しゅら)の日々が隠されていた。
三面記事にされた片思い
音楽教師と二美人の初恋――1915(大正4)年3月20日から3日間にわたって、岩手民報紙上に連載された記事は、こう題されていた。
H学校の音楽教師がバイオリンの個人教授をしていた女生徒2人から好意を寄せられ、1人と相思の仲になる。だが、秘めた思いは学校に知られ、どの恋も成就せずに終わった……。
今となってみれば、たわいもない内容だ。しかし、当時4300部とライバル紙に比べても見劣りしない部数が発行されていた地元新聞の社会面トップに掲げられただけに、関係者に与えた衝撃は大きかっただろう。
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記事を見つけたのは、賢治研究家でノートルダム清心女子大助教授の山根知子さん(42)。3年前のことだ。
記事中の「H学校」とは、花巻高等女学校。出すに出せなかった恋文が同級生の手にわたり、片思いが学校中に知れわたってしまう「花澤文子」とは、最終学年に在籍していた当時16歳の宮沢トシのことだと判断した。
山根さんは、記事を見つけて動揺したという。
「公表することがトシにとってはどうかと迷い、墓に参って発表していいでしょうかと相談しました。そこで、トシ自身が見つけさせてくれたのだと思えるようになりました」
「発見」には前史がある。
89年2月、賢治のおいに当たる宮沢淳郎が、家に残されていた文章を「トシ自省録」と名付けて公表した。20(大正9)年、21歳のトシがしたためたものだ。そのころ、母校の花巻高女に教員として勤めることが決まり、思春期のつらい記憶と決別するために筆をとったとみられる。
――思ひもよらなかつた自分の姿を自分の内に見ねばならぬ時が来た。
そう書き起こされた「自省録」は、卒業を控えた早春に経験した音楽教師への恋を振り返り、それがもたらした苦悩と挫折から自己を解放するために一心に信仰を求める胸中を、真剣に内省するものだった。
一件が「真偽とりまぜた記事」に取り上げられたことにも触れている。淳郎は、当時の有力紙だった岩手日報を調べたが、それらしい記事は発見できなかったとしていた。
花巻市の中心部、現在は市の生涯学園都市会館となっている場所に、トシが通った花巻高女はあった。敷地の一角には「生徒ここに学ぶ」と刻まれた石碑が立つ。
新聞連載が終わった翌日、トシは卒業式で答辞を読んだ。学校中の視線が突き刺さるように感じたに違いない。
――一日も早くこの苦しい学校と郷里とからのがれ度(た)い……そして全く文字通りに学校から逃れ故郷を追はれた(「自省録」)
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15年4月、東京・目白の日本女子大学校に入学。トシはそこで、あらゆる宗教を究極のところで一体化し、宇宙と自己の合一を求める成瀬仁蔵校長の「帰一思想」に出会い、共鳴する。
「人がひとり、この世で立っていくよりどころを信仰、広い意味で、自分と宇宙の正しい関係を見極めることに求めたのでしょう」
そう山根さんはトシの心の動きを推し量る。
同じ春、賢治は盛岡高等農林学校に入学した。2歳違いの兄妹はともに故郷を離れ、学生という共通の立場に立つ。2人は距離を超えて、しばしば人生や学業を語り合っただろう。
ただ1通だけ現存する賢治あての手紙の中で、トシは成瀬への敬愛の気持ちに触れている。成瀬の思想以外にも、首都の新しい思潮がトシを通じて賢治にもたらされたかもしれない。
さらに、成瀬に教えられた特定の宗教に偏らないトシの信心の寛容さは、排他的に法華経に帰依していた賢治の信仰をも揺さぶったのではないか。だからこそ、その早世は賢治に人生と信仰の抜き差しならない問いを突きつけた、と山根さんは解釈する。
トシはまた、学校生活への不満なども率直に賢治に相談していた。
「東京での心細い生活の中で賢治を頼りにしたこともあって、兄妹はいっそう結びついたのでしょうね」
賢治の弟、清六(故人)の娘婿で、宮沢賢治記念館長の宮沢雄造さん(70)はそう話す。
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――「音楽」と云(い)ひ「男の先生」と云ふ様な詞(ことば)にまで刺される様な人知れぬ呵責(かしゃく)を感じた(「自省録」)
宮沢さんに案内されて見たあのバイオリンこそ、トシが音楽教師と一緒に奏でたものだった。
その痛苦を乗り越え、トシはけなげな妹であるだけではない、自立したパートナーとして賢治の世界に欠かせない存在となった。
文・今田幸伸 写真・内藤久雄
(12/02)
〈ふたり〉
宮沢賢治とトシはともに岩手県花巻市に生まれた。2歳違いのトシは賢治にとって、もっとも親しい妹だったようだ(写真は賢治5歳、トシ3歳=林風舎提供)。トシが賢治と同じ結核を病んだことも連帯感を強めたのではないかと、2人のおいの宮沢淳郎(あつお)(故人)は著書で指摘している。
トシは日本女子大学校4年生の1918年12月に体調を崩して入院。急いで上京した賢治と母イチの看護を受ける。年が明けて3月に賢治らに付き添われて花巻に帰り、卒業は認められたが、そのまま療養生活に入る。翌20年9月、小康を得て花巻高等女学校の教諭心得となり、英語と家事を担当する。しかし、1年後の初夏から床に伏し、9月に退職。翌年11月、起きあがることのないまま、死去した。
「トシ」は戸籍名。賢治は作品の中では「とし子」、手紙のあて名には「とし子」「敏」「トシ」などと書いている。