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愛の旅人

なかにし礼「長崎ぶらぶら節」
»〈ふたり〉へ愛八と古賀十二郎―長崎・丸山

 とつとつ爪弾(つまび)く三味線、しっとり、ささやくような節回し。そこは瞬時に、昭和初めの長崎の座敷になった。

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愛八が座敷に出ていた料亭「花月」は様々な人間模様を見届けてきた。玄関の大ちょうちんをくぐるとタイムスリップの気分。ここで映画の撮影もあった=長崎市で

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映画を見て、大学を卒業後に芸妓になった女性もいる=長崎市で

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花街へ行こうか戻ろうかと思案したという思案橋。近くには多くの飲み屋が並ぶ=長崎市

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 作家なかにし礼さん(68)の講演会。福岡市の音楽ホールを埋めた聴衆は、明治から昭和を生きた芸者・愛八(あいはち)の「ぶらぶら節」のCDに耳を傾けた。

 なかにしさんは「いいでしょう? 分からない? それは素人ですねえ」と会場の笑いを誘いながら、小説の想を得た当時を振り返る。仕事の参考に全国の民謡を次々聞くうち、愛八のぶらぶら節と出会い、「歌謡曲を4000曲書き、300曲ヒットさせた私は、衝撃に近い感動を覚えた」というのだ。

 「何の飾りもなくて、聴き手にこびず、潔く自分を投げ出した歌いっぷり。そこに人生の喜びと悲しみを感じさせる。エディット・ピアフ(シャンソン歌手)に匹敵するすごい歌ですよ」

 小説「長崎ぶらぶら節」の舞台は、日本の三大花街として知られた長崎・丸山。愛八はここに実在した名妓(めいぎ)だ。1874(明治7)年、長崎市近郊の貧しい漁村に生まれる。10歳で丸山で奉公を始め、芸の素養の上に努力を重ね人気芸者になった。困った人を放っておけない人柄もあり、慕われた。

 若手を教えるベテランになった頃。地元豪商の跡継ぎだが、長崎の研究で身代(しんだい)を傾け、「長崎学」の先駆者として名高い古賀十二郎(じゅうじろう)に誘われる。「長崎の古か歌ば探して歩かんね」と。

 古老らを訪ね歩く旅が始まり、民謡や子守歌、隠れキリシタンの聖歌と、貴重な歌を記録する。旅の最後、それまで忘れ去られ、温泉町の老妓(ろうぎ)が覚えていたぶらぶら節に巡り合う。

 やがて、民謡探訪の取材中だった詩人、西条八十(やそ)が愛八のぶらぶら節に感銘を受け、1931(昭和6)年、プロデューサーを務めてレコード化。全国に歌と名を広げた愛八は、ほどなく病で世を去る――そんな筋だてだ。

 実際のぶらぶら節は埋もれてはいなかったが、すたれかけていた。愛八と古賀の力もあって再び広がり、今では「長崎くんち」にも欠かせない、地元を代表する民謡になった。鎖国時代に栄えた長崎の町人文化をよみこみ、映画で愛八を演じた吉永小百合さん(61)も「長崎の華やぎと文化の交錯を感じさせる歌」とほれこんだ。

 なかにしさんの小説は、愛八と古賀の歌探しという実話を下敷きに、ふたりが互いに心を寄せながら道行きを続け、添い遂げることはなかったという純愛模様を加え、脚色して描いた。

 売れっ子作詞家時代、歌謡曲に託して「昭和」を描いてきた作家は、作品の時代背景を記者にこう説いた。「歌を残すため探し回るなどというのは、酔狂な無償の行為。国のため死ぬのが美しいとされる戦時下だったら、許されなかった。ふたりの美しい行為は、自由な時代の残り火でもあった。その崇高さに人はひかれるのでしょう」

 その実像はどんなものだったのか。

貧しさ超え 伝える郷土愛

 長崎名物の坂が多い丸山かいわい。散策すると、三味線の音も時折聞こえる。料亭「花月」の座敷で、芸子衆(げいこし)(長崎ではこう呼ぶ)が歌と踊りで「ぶらぶら節」を披露してくれた。ベテランの桃勇(ももゆう)さんが言う。「気っ風が良く人情に厚かった愛八さんは私たちの鑑(かがみ)。心意気を受け継ぎたい」

 愛八が生まれた網場(あば)地区は、入り江に面した静かな漁村の風情が残る。かつては芸事が盛ん。ただ、働き口はなく、戦前、満州や朝鮮半島、博多にも多くの娘が芸者などとして流れていったという。芸才に恵まれた愛八が花柳界に出るのは自然なことだった。

 歌の得意な愛八は「清元や長唄の上手(うま)か人は、いくらでもおらすばってん、わたしゃ長崎の古か歌ば調べましょう」と古歌をけいこしては披露していた。ぶらぶら節ののんびりした節回しは特に気に入っていたようだ。

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 古賀十二郎は10近い外国語に通じ、外国の文献も自由に読みこなし、膨大な研究を残した。奉行所の犯科帳を発掘したり、墓碑を片っ端から記録したりと、偏執狂的とも言える作業も続けた。「学者は研究に専念するもの。生活のための仕事をしてはいかん」が持論で、糧はわずかに入る原稿料程度。間借りの4畳半一間で、風呂もろくに入らないような暮らしだった。

 芸者を花になぞらえ、それに囲まれる様を意味する「牡丹花大夢(ぼたんかたいむ)」というつやっぽい号を持ち、丸山に入り浸り、身上をつぶす一因になった。それは、社会学のフィールドスタディーでもあり、「丸山遊女と唐紅毛人(とうこうもうじん)」といった著書につながった。

 その研究は「網野善彦らのアプローチの先駆け」と大東文化大教授の中嶋幹起(もとき)さん(64)は言う。公の歴史には出ない花街の営みから歴史を読む姿勢は斬新だったという指摘だ。西洋化が一段と進む中、郷土史を残す機運が各地に広がり、民謡研究も始まったものの、対象は一般庶民が主で、芸者は見下されがちだった。「だが古賀も西条八十もそんな偏見を持たなかった。それが、ぶらぶら節のような座敷歌の継承につながった」と音楽評論家の細川周平さん(51)もみる。

 交流のあったふたりが古い歌の記録に熱中し始めたのは、愛八が50歳前後のころ。五線譜が一般的でない当時、歌詞だけでなく節回しまで残したのは画期的だった。近所から「うるさい」と言われるほど夜を徹して曲の考証を重ねた。ぶらぶら節と並ぶ代表的な民謡「浜節」も合作した。

 「ふたりがもっと若かったら、男女としてつきあったかも知らん」と、古賀が周囲に語ったこともある。

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 丸山の検番に近い路地裏、愛八が晩年を送ったわび住まいの跡が残る。芸で名をなしたものの暮らしには無頓着で、電気代が払えずあんどんに頼る貧乏暮らし。1933(昭和8)年暮れ、59年の生涯をひっそり閉じた。部屋には手書きの歌の本が何冊か残された。

 蓄えもない愛八の葬儀を古賀が取り仕切ると、名妓(めいぎ)の死を惜しんで、地元のだんな衆や、相撲・芝居といった愛八の愛した斯界(しかい)の大立者からも弔意が届き、盛大なものになったと、地元紙の記事にある。古賀はつぶやいた。「愛八はしょっちゅう貧乏しとったばってん、死に花ば咲かせたばい」

 貧乏は古賀もだった。多額の私財を投じた資料の多くが原爆で失われたが、「晩年も天井まで詰まった本の中に、埋もれておられたとです。話し出すと目を輝かせ、何時間も止まらなかった」。孫弟子で、長崎歴史文化協会理事長の歴史家、越中(えっちゅう)哲也さん(85)は言う。長崎の生き残りには文化の継承が不可欠と、文化財の保存に奔走、活動する学者であり続けた。

 ぶらぶら節は、幕末の外国船来航もよみこむ。騒然とする世情の中、お上は右往左往し、庶民の「ぶらぶら」歩きをとがめることもあった時代、「民衆は、ささやかな抵抗とお上への風刺を歌に込めたのかも知れんですねえ」と、なかにしさんの取材にも協力した越中さんは想像する。自由で豊かな長崎こそ、古賀が愛したものだった。

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 吉永小百合さんは愛八を演じる際、歌を何度も聴き、ふたりの足取りをじっくりたどった。「近代化とともに失われゆくふるさとの歴史や文化、自然。ふたりはそれを少しでも残し、伝えようとしたのではないでしょうか。武力につながってしまうような愛国心とは違う、素朴な郷土愛。その思いが時を超えて伝わってくる気がします」

 市井の学者と老妓の願い通り、長崎への愛を込めた歌は、後世に残された。ふたりの道行きに、現代の作家が新たな息吹を与えた。歌の魂は、それぞれの胸にこだまし、後世の人の胸にもまた旅していく。

文・山本晃一 写真・柏木和彦
(02/03)
〈ふたり〉

 愛八=写真一番下左=は本名・松尾サダ。いまの長崎市東部にあたる漁村・網場(あば)の生まれ。丸山の検番から花柳界に出た。三味線や長唄などの芸に優れたうえ、竹を割ったような気性、街頭で物売りをする子どもにも目をかけるといった情味あふれる逸話でも知られ、名妓として親しまれた。愛称で「あげはち」とも呼ばれた。「ぶらぶら節」のビクターでのレコード化には、西条八十のほか、声楽家らがかかわったという説もある。

 古賀十二郎=同右=は1879(明治12)年、蘭学者の家に生まれ、筑前黒田藩長崎屋敷の御用を代々務めた商家の養子に。長崎市立商業学校から東京外国語学校(現東京外大)を卒業した。帰郷後は、家業は二の次で家財をなげうち、地元の歴史や文化の研究に専念。「長崎市史 風俗編」など膨大な著述を通じ、長崎学の基礎を作った。文化財や資料保護を県などに強く働きかけ、県立長崎図書館の創設にも尽力。だが中央の学者とはほとんど交わらなかった。



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