水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」
»〈ふたり〉へ星野哲郎と朱美―山口・周防大島
爆弾低気圧が東へ去り、厚い雲間から一筋の光が瀬戸内の海に差し込んだ。そこが、数々のヒット曲を生んだ作詞家星野哲郎さん(81)と、94年に亡くなった妻朱実(あけみ)さんのふるさとだった思い入れか、海面の丸い光が舞台の歌手を照らすスポットライトに見えた。
 山の上から、夜の海を行く船の航跡がいくつも見えた。星野少年があこがれた明かりだ=山口県周防大島町で、200秒露光
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 書斎の星野哲郎さん。机の向かいの座布団に、朱実さんが座っていた
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 歌詞のメモは、朱実さんが清書し、千代紙で装丁した=東京都小金井市で
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 59年撮影
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沖合を貨物船が進んでいく。
山口県・周防大島(すおうおおしま)。65年前、がけ上の教室から、旧制安下庄(あげのしょう)中学4年の彼も同じ海を眺めていた。思えば、小学校からずっと、海を間近に見渡す教室で学んできた。大きな商船が沖を過ぎるたびに、「あの船に乗ると、世界へ行けるんか、ええのう、って、いつも思った」。真珠湾攻撃から日米開戦、泥沼の時代だった。
船乗りになりたかった。東京高等商船学校(現東京海洋大)に合格した2年先輩にあこがれた。袖の三つボタン、詰め襟のいかりのマークが格好良かった。島に住む同級生の木元清人さん(81)は、廊下に張ってある商船学校の募集ポスターを飽かず見つめる星野さんを、印象深く覚えている。
先輩を追って星野さんも商船学校に入ったけれど、「それからは、病気のヒットパレードでした」。肺浸潤で学校から休学を告げられ、半年遅れで卒業した。戦後の混乱の中、トロール船の給油係になったが、腎臓結核で右の腎臓の摘出……。術後が思わしくなく、船乗りを断念して島に戻った。
今度は、病床の「せんべい布団の上から」海を眺めた。4年の療養生活は苦しかった。「でも、こうして、妻の朱実に会うことができました」
筏(いかだ)八幡宮という古い神社が星野さんの本家だった。社務所の大広間に手回しの蓄音機があり、若者のたまり場だった。ふたりはここでひかれ合った。
星野さんは手すさびで詩や小説を書いた。「妹も、赤い屋根の家で詩人との暮らしを夢見る典型的な文学少女でした。詩がふたりを結んだのです」。朱実さんの姉で、この神社の宮司を務める星野葉子さん(77)は思い出す。
発売されただけで3800曲。「風雪ながれ旅」(北島三郎)、「みだれ髪」(美空ひばり)、「男はつらいよ」(渥美清)と歌謡史に残る名曲は少なくないが、やっぱり海の歌だ。「アンコ椿(つばき)は恋の花」(都はるみ)や、海で働く男たちの潮っ気がある「なみだ船」(北島三郎)、「兄弟船」(鳥羽一郎)……。「塩歌(えんか)」とも呼ばれる。
ずっと抱き続けた海への思いが歌となった。「捨てられたのも海、拾ってくれたのも海」と星野さんは言う。
自分の信条が一番詰まった歌は、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」(68年)だという。それからも、心筋梗塞(こうそく)、腹部大動脈瘤(りゅう)と大病に見舞われ、人生も病気も「一進一退」だったけれど、ひるまず、くじけず、「一日一歩 三日で三歩 三歩進んで 二歩さがる」人生を歩き続けてきた。
隣にいつも、朱実さんがいた。
背中を強く押し続けた
棚いっぱいに受賞曲の盾やトロフィーが並ぶ東京都小金井市の自宅応接間で、星野哲郎さんは妻の朱実さんを、感極まったようにこう言った。
「神様です!!」
その言葉に、二の句が継げなくなってしまった。
数日後、東京・赤坂のスタジオで水前寺清子さん(61)に会った。星野さんを「2人目の父」と慕う。
「うーん、先生、正直だねぇ、その通りだもの」「奥さんは恋人で、妹で、母……。すべてだったから」
「こんなこと、あった……」。録音ブースの中で天井を見つめた。
1964年に「涙を抱いた渡り鳥」がヒットするまで5年の下積みがあった。「肥後もっこす」で一途な父は、娘のヒットに命がけで、星野さん宅へ日参した。あまりのしつこさに星野さんは「親が出しゃばれるのは、美空ひばりさんだけ」と逃げ回った。ある日、押し入れに隠れた。そんな夫に朱実さんはきっぱり言った。「会って、しっかり、話すのです」。水前寺さんには、子どもを諭す母親に見えた。
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星野家の応接間に、長女桜子(おうこ)さん(46)が30冊ほどのノートを抱えてきた。ページいっぱいに言葉の断片が書き込まれている。
「好きと恋とはちがうもの」「つめたき炎」「銀座の渚(なぎさ)に落ちていた」「やっぱり新宿」「次の世はいやよ」「あのひとったらねぇ」……
「メモ魔」である。バーや屋台で小耳に挟んだ言葉、気になる会話をコースター、割りばしの袋と手当たり次第に書き留める。作詞のヒントにする。盛り場には生きた言葉がある。ホステスの世間話が面白かった。
夫が帰宅すると、朱実さんはポケットの乱雑なメモを清書する。マッチの燃えかすで書いた字もあった。帰りが何時でも、ずっと起きていた。書き終えたノートを夫の枕元に置く。眠る時間はなかった。
質屋通いをし、投稿した歌の賞金が生活費だった頃から、くも膜下出血で急逝するまでの36年間、朱実さんは未発表を含め、1万曲以上の歌詞のすべてを清書し、レコード会社に送った。
星野さんにとって、朱実さんもまた、自分を抱く海だったのだろう。
「きれいな字だって、感心してました。奥さんが亡くなり、実は女房だったと言われ、びっくりしちゃった」
水前寺さんはこう付け加えた。「丹念な字で書かれた詞を見たら、よし、頑張るぞ、って思いますよ」
清書の理由は「他人の字なら、詞を客観的に見ることができる」から。それだけだろうか。「母を通すことで父は安心できたのです。いい詞、いい歌を作り、神棚にヒットを願う。母は星野哲郎の最初で、最後のファンでしたから」。桜子さんはそう言う。
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周防大島にいま、星野哲郎記念館が建設中だ。構想から3人の町長をへて、この夏に完成する。建設費は少しずつ、繰り越して蓄えた。「おふたりの、ふるさとへの思いは特別でした。記念館は島に対する気遣いの結果です」。記念館を発案した元町長で県議の柳居俊学さん(57)は振り返る。
ふたりは、工事で消える砂浜を国に訴えて残した。学校に楽器を贈り、夏祭りの音頭、校歌、町の歌を作った。才能があるのに注目されない歌手を育てる「全日本えん歌蚤(のみ)の市」を8回開催、スター歌手とともに「島おこし」を演出した――。
星野さんは92年、腹部大動脈瘤(りゅう)になった。米国から叔母の息子が見舞いに来る。叔母は戦後、腎臓結核で倒れた時、米国で開発されたばかりの高価なストレプトマイシンを送ってくれた。
大切な人の、初めての日本だ。近くの公園を案内したい。改めて見ると空き缶のポイ捨てがひどい。みっともない。8月23日、1個拾った。その日25個になった。1日30個、1年で1万個。「三百六十五歩のマーチ」の「千里の道も一歩から」だ。数を毎日メモし、02年11月14日に12万本に達した。
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桜子さんは、ここにも父と母の深さを感じている。
缶拾いの前屈が夫の心臓にいいことを妻は知っていた。雨や雪の朝、朱実さんはよく「もう、やめちゃったら」と言った。星野さんだって、意地っ張りで一徹だ。「やめろ、と言えば、絶対に行く、母はそう思って、父の背を強く押したんです」
足腰の衰えで缶拾いは14万2676個でとどまっているけれど、一日も欠かさないことがある。
毎朝、花を買いに行って供える。店先に、朱実さんが好きだった白いカスミソウを見つけると、「子どもみたいなんですよ、うれしそうで」。つきそっている桜子さんは言った。
文・斎藤鑑三 写真・内藤久雄
(02/17)
〈ふたり〉
遠縁で子どもの頃から互いを知っていた。星野哲郎さんが1歳か2歳で両親は離婚、母が教員として中国へ渡ったため、祖母に育てられた。朱実さんは旅順工科大学教授の父とともに中国へ渡る。
1949年、腎臓の手術後、星野さんは周防大島に帰った。詩作の傍ら、懸賞曲に応募し生活費にした。53年、雑誌に投稿した「チャイナの波止場」が入選、初めてのレコードになる。その曲を聴くため、賞金の8500円でラジオを買った。
その頃、詩の同人誌仲間として文通し、批評し合った大阪市在住の作詞家南沢純三さん(78)は「星野さんの詩は、優しくて、あたたかかった。どうしてこんな詩が書けるのか、うらやましかった」と語る。星野さんは熱烈な恋をしていた。
朱実さんは文化放送に就職。星野さんが作詞家として上京するまでの2年間、300余通の恋文が島と東京を行き交う。58年に結婚、「思い出さん今日は」(島倉千代子)のヒットで日本コロムビア専属になる。