ユダヤ教徒がキッパと呼ぶ儀礼の帽子を略式にした、白磁の小皿のような布切れを頭上にいただいて、凍(い)てついたベルリンの墓所をさまよった。
大戦と東西分断で廃虚と化したポツダム広場もいま、ソニーセンターなどの建設で、かつての栄華がよみがえった=ドイツ・ベルリンで |
冬の落陽を浴びるマリエン教会。13世紀創建のベルリン最古の寺院だ=ドイツ・ベルリンで |
エリーゼの墓石だけ欠けたワイゲルト家の墓所=ドイツ・ベルリンで |
ドイツ留学中の鴎外=文京区立本郷図書館鴎外記念室蔵 |
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朽ちかけてぬれそぼった菩提樹(ぼだいじゅ)の落葉と地をはうツタに覆いつくされたユダヤ人墓地は、旧東ベルリンのシェーンハウザー通りにある。
不浄を打ち払う厳粛な冷気がたちこめて体感温度を真冬の外気温よりも低くするその墓所はしかし、霊魂の安息が約束された現世の終着地とはいえない。いたるところで御影石の墓石が造作もなく倒され、そのまま打ち捨てられているのは、それを修復すべき縁者がナチスのホロコーストで根絶やしにされているからである。
やがて探し求めていた女性の埋葬場所が見つかった。名はエリーゼ・ワイゲルトといい、生年は1857年、没年は1933年、旧姓はマイヤーである。だが、それら故人の最小限のアイデンティティーを刻印しているはずの墓石が、あるべきところにないのだ。
両隣には1907年に先立った彼女の夫、リヒャルトや義父母も葬られているが、エリーゼただ一人、そもそも墓石が建てられなかったようだ。
墓地の管理事務所で埋葬証明書を確かめると、ドイツ語で「灰」を意味する「Asche」と記されている。つまり亡きがらは荼毘(だび)にふされ、遺灰だけ土中にあるのだった。一族で火葬されたのも、エリーゼただ一人のようだ。
「1920年代にラビ(導師)の会議で、理由を問わず信者の火葬を認める決議が下されているから、処罰のような意味はないはずだが。墓石がないのはどういうわけだか、わからんね」
キッパを被(かぶ)った職員も首をひねる。
ドイツ留学から帰国して約1年半後の1890年、陸軍軍医学校の教官となっていた森鴎外(本名・林太郎)が文壇デビューを飾る小説「舞姫」で、ベルリンの日本人留学生と悲恋に陥り、むごすぎる別離で狂女へ追いやられる少女「エリス」にはモデルが実在する。
それはまぎれもなく、丸4年におよんだ自身の留学中、かりそめの情人としたドイツ人女性にほかならない。この秘事は帰国直後、海軍中将・赤松則良男爵の娘、登志子との縁談が整いつつあった鴎外の身辺を不穏にするスキャンダルの火種にもなった。
しかし彼女の素性はひた隠しにされてしまった。痕跡をたどるわずかな糸口さえ秘められたまま1989年、唐突にユダヤ人のエリーゼ・ワイゲルトを「エリス」に擬せようとする新説が唱えられたのだった。
1888年9月、26歳の鴎外がドイツから帰国した4日後、横浜港に入港した客船、ゲネラル・ベーダー号からドイツ人女性が単身、降り立つ。追いすがるように来日した情人である。彼女がエリーゼであったとすれば、このとき31歳、2人の男の子に恵まれた実業家の人妻だったことになる。
年上の人妻か16歳の少女か
追われるエリート青年、森鴎外はすでに帰国の途上、情人が極東行きの客船に乗ったと知らされていたから、見苦しくうろたえたりはしなかったものの、沈鬱(ちんうつ)な心持ちで憂えていた。
仮に彼女を「エリス」と呼ぶ。
「エリス」は、いまの都心の銀座5丁目にあった高級ホテルの築地精養軒に投宿して、鴎外との逢瀬(おうせ)を心待ちにしていたようだ。
妹の喜美子の随筆「次ぎの兄」によると、鴎外は、森家を富豪の一族と思い違いした彼女が日本行きを決意し、得意な踊りや手芸で自活するから迷惑はかけないとまで言い張るので、「手先が器用なぐらいではどうにもならない」と諭したのに思いとどまってくれなかったと打ち明けたそうである。
来日から約1月後、「エリス」はついに翻意し、鴎外に見送られて横浜港から帰国した。別れ際は屈託なく船べりでハンカチを振っていたという。
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ベルリンの夕べに菩提樹の並木道のウンター・デン・リンデンを逍遥(しょうよう)していた「舞姫」の主人公、太田豊太郎は、マリエン教会らしきクロスター街の古寺院でエリスと巡りあう。「もの問いたげに愁いを含む目」で豊太郎を射すくめる娘の髪は淡い黄金色だ。
「舞姫」はただ一度きり、篠田正浩監督、郷ひろみ主演で1989年に映画化された。原作に忠実ならば金髪であるはずの「エリス」を演じる女優の髪は、黒髪に見まがう鳶色(とびいろ)である。
この映画の製作前のリサーチで、エリスのモデルとしてユダヤ人女性のエリーゼ・ワイゲルトの存在が突き止められていた。彼女は黒髪だったのだ。
「エリス」の身元は、1980年代にゲネラル・ベーダー号の船客名簿を載せた英字新聞が調べられた結果、実名は「エリーゼ・ビーゲルト」か「エリーゼ・ワイゲルト」のどちらかに絞られたと考えられていた。
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リサーチにあたったベルリンの森鴎外記念館のスタッフ、ベアテ・ボンデさんによると、まずユダヤ人墓地にエリーゼ・ワイゲルトが過去に葬られていたことが分かり、埋葬記録を基に孫の所在までたどりついたという。
フランクフルトの裕福な銀行家の娘だったエリーゼは、クロスター街で皮革商店を営む3歳年上のリヒャルト・ワイゲルトと結婚した。しかし、いわゆる見合いで嫁いだ彼女は、人生観や嗜好(しこう)のかけ離れた夫に辟易(へきえき)することもままあったらしい。
彼女は英語もフランス語も堪能(たんのう)で、文学サロンを主宰し、声楽をたしなんだが、夫は趣味で軍事教練に熱中するミリタリーマニアだったようだ。新婚旅行でローマへ赴いたとき、史跡のいわれを夫があまりに稚拙に語るのについにぶち切れ、日傘をたたき壊したという逸話を孫が覚えていた。
鴎外が衛生学を研究したドイツ・ライプチヒ大学で、病理学研究所の所長代理を務めていたカール・ワイゲルトは彼女の親族だった。この人物がふたりの関係をとりもつ接点とされる。
「上流階級婦人の彼女は毎年、数カ月は子どもと家庭教師を連れてジュネーブへ出かけていたので、訪日のための不在は不審には思われません。屋敷には日本間まで設(しつら)えていたそうです。けれども孫たちに、祖母の日本への逃避行を裏づける記憶は皆無でした」
ボンデさんは、そう思い起こす。
ところが「エリス」の亡霊は、これで鎮められたわけではない。
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鴎外文学にも傾倒している千葉大法経学部教授の植木哲(さとし)さん(62)は1997年から2年間、ベルリンのフンボルト大学の客員教授を務めたとき、戸籍簿や不動産登記簿などの法的な1次資料を丹念に追究して、エリーゼ説の信憑性(しんぴょうせい)を洗い直した。結果、この仮説にあざとい違和感を抱いたのだった。
夫の会社の変遷をたどってみると、エリーゼは夫の没後、後継の社長になり、第1次大戦後、商事事件を担当する名誉裁判官にまで選ばれていた。
「戒律の厳格なユダヤ社会で駆け落ちまがいのスキャンダルで指弾されたであろう女性が、経営の実権や名誉にあずかれるだろうか」と植木さんは主張する。そのうえ、ベルリンで鴎外の下宿のほど近くにあった「ビーゲルト」姓の既製服店の一人娘で、「エリス」来日のとき16歳だったルイーゼ・ビーゲルトを探し当て、この少女こそモデルにふさわしい、とさらなる新説まで世に問うているのである。
家名を保つべく別離を強いられたとはいえ、鴎外と「エリス」との文通はその後も途絶えなかったようだ。
鴎外は死期が迫ったある日、彼女の写真と手紙をひとまとめにし、眼前で焼き捨てさせたという。
永久の隠蔽(いんぺい)で、愛の不変の契りをひそやかに成就させたのだった。
文・保科龍朗 写真・高橋 洋