桜島は想像した以上の量感だった。
鹿児島の象徴、桜島。今も噴煙が上がるのは南岳。夕暮れ時、けわしい山肌が一瞬、赤く染まった=鹿児島市吉野町で |
「絞りの着物を買ってもらった」山形屋前を市電が走る=鹿児島市金生町で |
「富迫君」と出かけた吹上浜。砂浜に冬の波が打ち寄せる=鹿児島県日置市で |
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日中は薄い灰褐色に見えていたが、午後5時を回るころから青みが増し、山肌の立体感が失われてきた。右肩から上がる煙は、ゆっくりと南側、やや東寄りにたなびいているようだ。
錦江湾を白いフェリーが行き交う。明かりがまたたき始めるころ、全体の輪郭が急にぼやけた。桜島は大きな黒い塊になり、闇にとけ込んでいった。
脚本家の向田邦子が79年2月、小学校以来38年ぶりに鹿児島を訪れる時に再会を心待ちにしたのも桜島――その時に「夕暮の桜島の凄(すご)みは、何といったらよいか」(「鹿児島感傷旅行」)と書いている。今回、彼女が泊まったサンロイヤルホテルで、偶然にも同じ11階の部屋をあてがわれた。
ホテルの立つ埋め立て地はかつて、松林が豊かな「天保山(てんぽざん)」という海水浴場だった。邦子は小学生のとき、そこで下着を盗まれている。「スカートの裾(すそ)を手で絞るように押えながらバスに乗りうちに帰った」と、随筆集『父の詫(わ)び状』の中の「細長い海」にある。祖母と弟も一緒だった。
晩酌をしながら話を聞いた父・敏雄は「馬鹿!」と怒鳴り、「そんなに大事なものならこんどからはいて泳げ!」。邦子が「何という理不尽なことをいうのだろうと鼻の奥がツーンとしてきた」と、トイレで涙をふいていると、隣の男便所に父が入ってくる。
「ビールのせいか、勢いのいい父の水音が聞えた。それにまじって、笑い声がするのである。父はさもおかしそうに笑っていた。さっき食卓でどなったようなものの、父もやはりおかしかったのだろう。お父さんというのは不思議なものだな、と思った」
『父の詫び状』は全24編。うち22編に父が登場する。唯一の稼ぎ手として家族に君臨し、威張り散らす――。明治生まれの父親である。
そんな父を、「蚊トンボのようなすねをした女の子」が早熟な目でみつめる。小学3〜5年、父の転勤で過ごした鹿児島での2年3カ月だった。当時の父の年を超えた後に、改めて温かい目でとらえ直すのである。
「向田邦子 かごしま文学散歩」という冊子をまとめたNPO法人かごしま文化研究所の副理事長、三嶽公子(みたけ・きみこ)さん(49)は「お父さんは初めての支店長という栄転で、広い社宅に住み、地元では『分限者(ぶげんしゃ)どん』と呼ばれた。戦時色もまだ濃くなく、向田家が一番輝いていた時代だったのでは」とみる。「私もそうですが似たような父を持つ人は共感を覚えるでしょう。愛情と反感をないまぜにしながら、そこには確かな『父親の発見』がありますから」
45歳で乳がんの手術を受け、入院のベッドで行く末を思った時のことが、「鹿児島感傷旅行」の中で語られている。「故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい『故郷もどき』なのであろう」と。
「遺言状」に記す父への思い
『父の詫び状』は、向田邦子が左手で書いた作品である。
乳がんの手術で死を意識させられ、その時の輸血から血清肝炎になったうえに「傷口の拘縮期が絶対安静の期間とぶつかり、右手が全く利かなくなった」。「誰に宛(あ)てるともつかない、のんきな遺言状を書いて置こうかな」。後書きに、そう記されている。
脚本家として既に売れっ子で「寺内貫太郎一家」を書いていた頃。九つ下の妹の和子さん(68)が「仕事なんかしないで自分の健康だけ注意したら」と言うと「仕事をしなさんな、とは『死ね』と同じことよ」と返ってきた。
たまたまそこに原稿を依頼してきたのがPR誌「銀座百点」だった。76〜78年に連載した掌編が初の随筆集『父の詫び状』となる。それはとりもなおさず「向田家の一代記」であり、家族の間で物議をかもした。「祖母は、未婚の母であった。父親の違う二人の男の子を生み、その長男が私の父である」。亡き父の生い立ちにかかわることが、随所に触れられていたからだ。
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父の母きんは石川県能登島の出身。和子さんは「姉さんの視線」が父に集中しているのはこの祖母の影響が大きいとみる。2歳にならないうちに弟が生まれ、邦子は祖母と同じ部屋で、ずっと寝起きをすることになるからだ。
「父は自分の過去は一切口にしなかった。後先考えずに苦労をしょいこんだ祖母が時おり反省を込めて『ばかなことをした』と漏らすようなことを、姉は全部聞いて育ったはず」と和子さんは言う。そうして父の境遇を知れば知るほど、日ごろの振る舞いも違ったまなざしで見つめ直すことができたのではないか。そう思うのは、父のあまりの言動をめぐり和子さんも不満を漏らした時のこと。邦子はこう語った。
「私たちは、望まれて生まれてきて、とっても幸せなんだよ。お父さんは、そうじゃなかったかもしれない」
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「ねずみ花火」は父の優しい一面をうかがわせる一編だ。小2の弟の級友「富迫(とみざこ)君」を父は可愛がった。富迫君が「父親がなく、母親と二人暮らし」なので、「親戚(しんせき)から村八分にあいながら、母親の賃仕事で大きくなった惨めな自分(父)の少年時代を、彼の上に重ねて見ていたのだろう」と書く。
ある日曜、親子3人と富迫君は、鹿児島市の裏側にあたる吹上浜に出かける。父は富迫君が持参したお握りを食べ、代わりにのり巻きをあげる。その後、相撲を取っていた弟と富迫君が組み合ったまま、ゆるやかな砂の斜面をごろごろと下へ転げ落ちた。「落ちたところで、なおもふざけながら、坊主頭の砂をはらい合っては笑っている。父も笑いながら見ていたが、不意にハンカチを出すと眼鏡の曇りを拭(ふ)きはじめた。父は泣いているようだった」
「富迫君」が健在だと聞いて訪ねた。富迫義治(よしはる)さん(75)。鹿児島市の隣の日置市で自転車店を営んでいた。
「毎日のように遊びに行っていましたが、お父さんと言葉を交わした記憶はないんです」。68年前、吹上浜に行った日も「電車の中で紅茶を注いでもらった」以外は覚えていないという。
ただ本人に会って一つ明らかになったことがある。富迫さんの父が先に亡くなったとされていたが、事実は逆で、母が先に亡くなっていたのだ。
実は、こうしたことは珍しくない。「骨組は事実、細部は向田邦子の才気による脚色、というしくみでできている。だからおもしろいのである」と高島俊男さんが著書『メルヘン誕生』で『父の詫び状』を分析し、指摘する。
脚色は父の死の場面にまで及んだかもしれない。69年2月、父は勤めから帰ってウイスキーを飲み、プロレスを見て床に入ってから午前2時ごろ、心不全で突然死する。64歳だった。
「弟が母にいった。『顔に布を掛けた方がいいよ』。母はフラフラと立つと、手拭(てぬぐ)いを持ってきて、父の顔を覆った。それは豆絞りの手拭いであった……弟は黙ってポケットから白いハンカチを出し、豆絞りと取り替えた」
当の母せいが「あれ、嘘(うそ)ですよ(笑)。うちに豆しぼりの手拭なんてないですよ」と、後に異議を唱えている。
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四十九日も過ぎ、邦子は友人と桜を見に京都へ出かけ珍味屋に立ち寄る。
「いつも通りのものを頼み、『このわたも入れて下さいね』。こう言って財布を探しながら、私は笑い出していた。このわたを好きな父は、もういないのである。『馬鹿だなあ。なにやってるんだろう』。大笑いに笑いながら、気がついたら私は泣いていた。いままでどこかにかくれていた涙が、急に鉄砲水のようにあふれたのか」(『霊長類ヒト科動物図鑑』)
「鉄砲水」とは大げさだ。しかし、それ以外に、脚色はないのだろう。
文・小西淳一 写真・内藤久雄