詩人の妻なのである。まして貧乏詩人の妻である。詩人と一緒に夢を食って生きたのかと思ったが、どうやら違っていたようだ。山之口貘(ばく)さんの妻、静江さんのことである。
幼少期に親しんだ那覇市・波之上を貘さんは生涯忘れなかった。沖縄での生活を夢見る青年が砂浜に寝転んでいた |
紅型(びんがた)の衣装もあでやかな「じゅり馬行列」。貘さんは辻のじゅり(遊女)に字を教え、宿と飯にありついたことも=3月11日、那覇市の波之上宮で |
手前の米軍基地住宅と奥の普天間飛行場に挟まれた宜野湾市街地。里帰りした貘さんに衝撃を与えた「不沈母艦沖縄」の姿は今も変わらない |
|
練馬での一家3人=泉さん提供 |
那覇市随一の繁華街、国際通りのにぎわいを後に、南東へ。20分ほども歩いたろうか。街にぽっかりと四角く空いた与儀(よぎ)公園に出た。
土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団(ざぶとん)でその上にあるのが楽といふ
代表作「座蒲団」を刻んだ碑が、公園の片隅にひっそりと立つ。
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に坐(すわ)つたさびしさよ
「戦前、沖縄の貧しい家には畳なんてなかった。私の家では竹で編んだ床に、わらの敷物を敷いていたそうだ。貘さんはそんな時代を知っていたし、放浪時代には実際に土の上で眠った。でも、静江さんには、畳の上に座蒲団がある生活が当たり前だったんだな」
沖縄の詩人、高良勉(たから・べん)さん(57)が語ってくれた言葉が、頭に浮かぶ。
放浪の中でも、貘さんは結婚にあこがれた。あこがれただけでなく、たくさんの詩に書いた。「結婚」の冒頭。
詩は僕を見ると
結婚々々と鳴きつゞけた
おもふにその頃の僕ときたら
はなはだしく結婚したくなつてゐた
そんな貘さんが見合いをした。相手の女性に貘さんは、ひとこと尋ねる。
「僕は結婚することに定(き)めたんですが結婚することに定めますか」
――夢中で、うなずいていました。
貘さん没後の1963(昭和38)年、「文芸春秋」のインタビューに当時をそう振り返った女性が、静江さんだ。
だが、詩はこう結ばれる。
僕はとうとう結婚してしまつたが
詩はとんと鳴かなくなつた
いまでは詩とはちがつた物がゐて
時々僕の胸をかきむしつては
箪笥(たんす)の陰にしやがんだりして
おかねが
おかねがと泣き出すんだ。
37年の師走に結婚した貘さんは、いきなり失業する。月30円の薄給とはいえ頼りにしていた温灸(おんきゅう)器とニキビ・ソバカス薬の通信販売会社がつぶれたのだ。新妻に年越しそばも食わしてやれない貘さんの不安に反して、静江さんは逃げ出さなかった。「そのかわり、彼女は、泣きつづけたのである」
そのうち静江さんは、泣くのをやめた。代わりに貧乏暮らしをなじってやまなくなった。貘さんはといえば、ぐちる女房を黙って詩に描いた。
文芸春秋の発売後、貘さんを苦しめ続けた悪妻、と静江さんをののしる匿名の手紙が届く。静江さんは怒りで真っ青になって、手紙を投げ出した。
静江さん、あなたは本当に「悪妻」だったのですか。
「やっぱりママでなきゃね」
神社の赤い本殿を乗せた隆起サンゴ礁が白砂のビーチに突き出す。
那覇市の波之上(なみのうえ)は、山之口貘さんにとって放浪の原点となった場所だ。没落した家を頼れず、友人知人からも最後は見放されて、自然な成り行きのように波之上や隣接する辻遊郭、奥武山(おうのやま)公園などで野宿する生活に入る。
波打ち際をコンクリートの高架橋が通り、その先の海上にも自動車道の建設が進んでいる。「耳と波上(なんみん)風景」で貘さんが「沖縄人のおもい出さずにはいられない風景」とうたった「浴衣や芭蕉布(ばしょうふ)の遊女達(たち)」「くり舟と山原(やんばる)船」は、もうどこにも見つからない。
だが、ビーチに接する公園の目立たない木陰には、ホームレスのテントが立ち並んでいた。いつの時代にも、放浪を余儀なくされる人たちはいる。
♪ ♪ ♪
貘さんは再び故郷を捨てるが、住所不定、放浪の舞台がそのまま東京に代わっただけだった。詩作への情熱と、結婚への渇望ばかりが募る。
「結婚から最も遠い場所にいたからこそ、結婚はまともな生活者となることへの願望、ひいては、何不自由したことのない少年時代への追憶に重なっていたのではないか」
筑紫女学園大の松下博文教授(50)は、当時の貘さんの心理を推し量る。
――逢(あ)ってみると、予想に反して、明るく、まじめで、しかも優しい人だったのが、気に入りました。
見合いの感想を静江さんは文芸春秋にこう答えている。貘さん34歳、静江さん32歳。年齢にも背中を押されて、2カ月後には中華料理店で結婚式を挙げる。だが、それからが大変だった。
家財道具は貘さんがそろえる、温灸(おんきゅう)器会社の薄給以外に詩の原稿料が入るという世話人の口上はすべて、ほご。新婚の大みそか、静江さんは生まれて初めて質屋ののれんをくぐった。
「それでも新婚時代は良かったと、母は言っていました。ふたりでビフテキを食べたこともあるそうですよ」
一人娘の泉さん(63)が話す。戦時下の人手不足で1939(昭和14)年に東京府職業紹介所に職を得た貘さんは、初めて生活の安定を手にした。
ふたりの雲行きが怪しくなったのは、貘さんが48年に勤めを辞め、詩作に専念し始めてからだ。詩集出版のもくろみがあったが、出版社の火事と倒産が、6畳一間の間借りから抜け出す機会を失わせた。
「間借り生活が終わらないとわかったころから、母は不安になったのでしょうね」。泉さんが言うところの「ぶつくさ母さん」の誕生だ。
日々の食費に、私立小学校に通う娘の月謝や給食費。妻の愚痴から逃げるように昼間は友人知人、新聞社や出版社を訪ねては1000円、2000円と借金を重ね、夜は遅くまで原稿用紙に向かう。そんな貘さんの生活が、終生続く。
♪ ♪ ♪
「推敲(すいこう)の鬼」と呼ばれた貘さんの原稿を、那覇市で山之口貘記念会に見せてもらった。「不忍池」の未定稿は131枚、「底を歩いて」は86枚。マス目を、こぢんまりと、だが丁寧な万年筆の文字が埋める。2、3行で手放した紙もある。削除や挿入はほとんどない。どれも清書したかのようだ。
「枝をたわめて盆栽の形を作るように、ためつすがめつ言葉のすわり具合を確かめている姿が見えるようです」
記念会事務局長で詩人の与那覇幹夫さん(67)が言い、こう付け加えた。
「当時としては、かなりいい原稿用紙を使っていますね」
もったいながり屋の母が、感心にも父の原稿用紙の使い方にだけは文句を言ったことがない――泉さんは、著書でそう回想している。
貧しさを恥じるあまり家に引きこもりがちだった静江さんはやがて、貘さんの浮気を疑い始めた。
それと前後して58年、貘さんは33年ぶりに帰郷を果たす。地上戦と米軍による占領で昔日の面影をすっかり失った沖縄に大きな衝撃を受けた。帰京後の一時期、生気が抜けたようになる。がんで没したのは、その5年後だ。
♪ ♪ ♪
貘さんの闘病の4カ月間、静江さんは献身的な看護ぶりを見せた。
「夜も泊まり込んで睡眠もとれない中で、心残りのないくらい看護したのでしょう。父が亡くなると倒れて、通夜の時は寝込んでいました」
浮気の相手と疑っていた女性が見舞いに訪れるのに張り合うつもりだったのかも知れないとも、泉さんは思う。だが、貘さんは死ぬ少し前に、そんな静江さんに語りかけた。
「やっぱり、ママでなきゃね」
泉さんは、その時の口調を、静江さんを非難する手紙を送りつけてきた人に聞かせたいと思っている。「上べはどう見えようと、その底に潜む家族としての絆(きずな)」を感じるからだ。
文・今田幸伸 写真・溝脇正