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愛の旅人

「杉田久女句集」

杉田久女と宇内

2007年03月31日

 福岡、大分の県境にそびえる英彦山(ひこさん)は古来、山形県の羽黒山、奈良県の大峰山と並んで日本三大修験場の霊峰として知られる。そして俳人、杉田久女(ひさじょ)が最も多く吟行した場所の一つでもある。その足跡をたどろうと春の一日、英彦山をめぐった。

写真春の寒波に、霧氷で飾られた英彦山。久女はこの豊かな大自然を好み、俳句の修業の場として何度も通った=福岡県添田町
写真第6回全国女性俳句大会in北九州に参加、久女ゆかりの櫓山荘跡で句を詠む女性たち=北九州市小倉北区で
写真しばしば吟行に訪れた広寿山福聚寺=北九州市小倉北区で
写真  
写真写真は16年ごろ、ふたりと長女昌子

 参道の入り口にあたる「銅(かね)の鳥居」から、英彦山神宮の中心の奉幣殿(ほうへいでん)までは約1キロある。石畳の参道が一直線に延びている。ゆっくり歩き始めたが、坂道のせいか、10分ほども歩いただけで、たちまち息が切れてしまった。

 谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ

 久女の代表作のこの句は英彦山で詠まれた。1931(昭和6)年、高浜虚子(きょし)が選者を務めた日本新名勝俳句で、全国の10万3000余句の中から帝国風景院賞(金賞)の20句に選ばれた。

 奉幣殿の手前の参道左側にその句碑があった。句碑を眺めながら、久女が着物と草履といういでたちで、標高1190メートル、英彦山の中岳山頂まで足を運ぶことの大変さを思った。

 だが、久女は英彦山を歩く気分を「自然のふところに抱かるる和らぎ、じつに爽快(そうかい)な孤独の心地なのである」(「英彦山に登る」)と記している。

 久女は「ほしいまゝ」の言葉が思い浮かぶまで、4度も英彦山に通った。俳句にかける久女のつかれたような情熱を感じる。

 久女が俳句を始めたのは16(大正5)年、次女が生まれた26歳の時だ。実兄の赤堀月蟾(げっせん)が、自宅に滞在した際、手ほどきを受けた。俳句に出会ったことで、久女は波瀾(はらん)万丈の人生をたどることになった。

 その久女の生き方に、銀行員から俳優を経て俳人に転身した黛(まゆずみ)まどかさん(44)は強い影響を受けた。俳優時代に旅番組で久女の足跡をたどったのが転機になった。黛さんは当初、久女の起伏に富む運命に興味を抱いたが、次第に関心が俳句に移っていった。

 花衣(はなごろも)ぬぐやまつはる紐(ひも)いろいろ

 花衣は花見に女性が着飾る晴れ着のことだ。花見から帰り、畳の上に一枚ずつ着物を脱ぐと、色とりどりの紐が渦を巻いて広がる。艶(つや)っぽい句だ。

 黛さんは、その句の奥に久女の叫びをよみとった。社会や家庭、夫など自分を縛りつけているしがらみを着物の紐一本一本にたとえたと理解した。

 明治時代、女性は家にこもり、つつましく家庭を守る「良妻賢母」の生き方が美徳とされた。大半の人は世間の尺度に合わせて暮らす。だが、久女にはそれができなかった。女性もまた、思う存分に自己表現をすると同時に、夫を通してではなく、自立的に生きたい。だが、そんな生き方を願い、求めることで周囲と摩擦を起こしたのだ。

 わずか17文字でそこまで心の叫びが歌える奥深さに黛さんは圧倒され、俳句を始めるきっかけになった。

 久女の人生を変えた俳句との出会いはどんなふうだったのだろうか。

輝き続ける「清艶高華」の句

 北九州市立美術館の収蔵庫に保管されている一枚の絵画の前に立った。青年の裸像である。杉田久女の夫、宇内(うない)が東京美術学校を卒業する時に描いた自画像だ。優等生だったという宇内の実力の一端がかいま見えた。

 お嬢様育ちの久女は、数多くの縁談には目をつぶり、芸術家との結婚を夢見た。「芸術」が縁結びだった。

 久女は結婚当初、宇内の画家としての大成をひたすら願っていた。だが、宇内が絵画に心血を注ぐことはなかった。それが久女を幻滅させ、夫婦の間にはしだいに亀裂が生じてくる。

 そんな折に久女が出会ったのが俳句だった。1917(大正6)年、高浜虚子が主宰する俳誌「ホトトギス」に久女の句が掲載される。上京して句会にも出席し、虚子にも初めて会う。これを機に作句に熱中し始める。

 だが、幼児2人を抱え、多忙な家事をこなしつつ、俳句に打ち込むのは容易ではない。「明治の男」の夫とのきしみは深まり、一時は離婚話も出た。

♪  ♪  ♪

 久女は他人の目に自分がどう映るかは考えず、信じるままに突き進む性格だった。そんな久女を世間は放っておかない。宇内が子どもを背に市場へ買い物に行くのを見たといった「久女伝説」が長く語り継がれていた、と久女研究家の増田連(れん)さん(76)は言う。

 増田さんは小倉中学で宇内の教え子だ。家庭を顧みない悪妻というゆがめられた久女像は生徒にも知られていた。「あんなすばらしい俳句を作る人が、なぜ評判が悪いのか」。後に久女の研究に取り組む動機になった。

 宇内は半面、「非常に鋭い感覚をもっています」と妻の天才性を見抜いていた。増田さんは「芸術家としての久女を宇内が理解すればするほど、家庭の妻としての久女に対する世間の風当たりが強くなったであろうことは十分に推察できる」と指摘する。

 久女は一度は教会の門をたたいた。だが、信仰でも、家庭生活で満たされないむなしさは救われないと悟り、俳句の道に生きることを心に決めた。

 32(昭和7)年3月、久女は主宰誌「花衣」を創刊した。俳句と俳句評論を発表し、表紙や挿絵まで自分で描いた。好評であったが、9月に5号が出て突然、終刊している。廃刊理由はいまも謎のままだ。

 久女は同年の「ホトトギス」10月号で同人に昇格している。この時点で九州の同人は2人だけ。いかに名誉だったかがわかる。虚子から「清艶(せいえん)高華」と評された句風の久女は俳句に一層の精力をつぎ込んだに違いない。

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 それから丸4年。「ホトトギス」36年10月号に1ページ全面を使った前代未聞の社告が出る。師である虚子から突然に同人を除籍されたのだ。理由の明記はないままで、研究者の間でさまざまな説が唱えられた。真相はいまもって不明である。

 理由はどうあれ、長く心服し傾倒していた虚子からの「勘当」で、俳人の生命を絶たれたも同然だった。久女が悲願とした句集の出版も、虚子に求めた序文を書いてもらえず、かなわなかった。久女はその後、体調を崩し、終戦の年の45年秋に福岡・太宰府の筑紫保養院に入院、3カ月後に死去した。

 名古屋市の歌人、三宅千代さん(89)は愛知県小原村(現豊田市)の宇内宅であった久女の葬儀に参列した。宇内が愛情と尊敬を込めて久女のことを延々と語り続ける姿に「夫婦のあり方を改めて知った気がした」と振り返る。

 従来の杉田久女伝では、宇内は久女に不幸な生涯を送らせた夫として冷たい視線を浴びてきた。だが、本当にそうなのか。例えば、宇内は小倉から小原村に引き揚げる際、久女が書き残したものを一切処分することなく持ち帰った。日記など、宇内にとって必ずしもうれしくないものも含まれていた。

 宇内のこのフェアな行為があったればこそ、長女の石昌子さんの手で、久女の句集が世に出て、それが今なおすばらしい評価を得ている。

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 晩年は虚子から一方的な扱いを受けた久女。久女は虚子をどうみていたのだろうか。俳人の坂本宮尾(みやお)さん(61)は「遠く離れた虚子に、自分の存在を丸ごと受け止めてくれる理想の理解者を求めていたのではないか。虚子への思いは信仰といってもいいほどだった」と語り、「半面、創作の面では誇り高く自己を主張し、師とも対等に渡り合おうとした。久女は孤独な天才型の俳人で、強烈な自我と激しい情熱は俳句結社の枠には収まりにくかった。でも、傷つきながらも、生涯、師は虚子ひとりという姿勢を通した」と言う。

 女性が表現者として生きることが難しい時代に、久女は俳句一筋に生き抜いた。逆境の中から生まれた珠玉の句は、いまも輝き続けている。

文・大矢雅弘 写真・柏木和彦

〈ふたり〉

 久女は1890(明治23)年、鹿児島市で出生。本名赤堀ひさ。官吏の父の転勤に伴って沖縄、台湾で幼少期を過ごし、東京女子高等師範学校付属高等女学校を卒業した。杉田宇内は愛知県小原村(現豊田市)で代々庄屋を務めた素封家の跡取りとして生まれた。東京芸術大学の前身、東京美術学校の西洋画科を卒業し、研究科まで進んだ。当時は黒田清輝や高村光雲ら指折りの指導教官がそろっていた。

 久女の家が東京の上野桜木町にあったころ、兄らの遊び友達として宇内が家に出入りするようになったらしい。宇内は1909年春、小倉(現北九州市)の旧制小倉中学校に図画教師として赴任した。この年にふたりは結婚。宇内25歳、久女19歳だった。

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