朝と昼の境界のような時分に村に着くと、あたりに人の気配はなく、雨上がりの果てしないぬかるみのために、足取りはやたらと鈍重になった。
迷宮のような旧市街からプラハ城へ通じるプラハ最古のカレル橋。夜の終わりに、石畳が足音を響かせる=チェコ・プラハで |
たそがれに浮かび上がるプラハ城。小高いフラッチャニの丘から市街を見下ろす=チェコ・プラハで |
淡い琥珀(こはく)色に包まれる夜の旧市街=チェコ・プラハで |
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(C)Verlag Klaus Wagenbach Berlin |
この村に「城」があるはずだった。
プラハから約100キロ、南下してたどり着いたこの寒村はオセクといい、作家フランツ・カフカの父、ヘルマンの郷里である。
1852年、極貧にあえぐユダヤ人の肉屋の子に生まれたヘルマンは、14歳になると村を飛び出した。ボタンや糸の行商をしながら身を立てる足がかりをつかみ、プラハ随一の目抜き通りで装身具の卸小売商「カフカ商会」を繁盛させるまでに成り上がったタフな上昇志向の男だった。
長身痩躯(そうく)を結核にむしばまれて40歳で絶命する2年前、カフカは14年足らず働いて、ささやかな恩給の資格を手に入れた勤め先を退職すると、ある城にまつわる、不気味な悪夢を紡ぐ永久機関のような小説の執筆に没頭した。
冬の夜ふけ、測量士を名乗る男K(カー)が村に現れる。村にある城に雇われたというのだ。しかし、城にある不可解な官僚機構の役人たちから仕事の指示は一向になく、それを確かめるべく、かなたに輪郭がくっきり見えている城へ乗りこもうとひたすら歩いても、どうしても行き着けないのである。
6冊のノートに書き継がれながら、未完のまま捨て置かれたこの長編小説「城」の構想は、オセクにある城の記憶に触発されたのだという説がある。
オセクに実在する城は、物見やぐらの尖塔(せんとう)をそびえ立たせた2階建てのバロック様式の豪壮な屋敷だった。18世紀末からダウベックという貴族の持ち物になり、村一帯を荘園にしていた。
ヘルマンの生まれ育ったユダヤ人集落は村はずれにあって、村人から「宮殿」と呼ばれた領主の城を取り巻く世界とは隔絶されていた。城は第2次大戦後、国有化され、いまは身寄りのない知的障害者が共同生活する社会福祉施設になっていた。
カフカの小説で女性の登場人物はリアリティーが希薄で、寓意(ぐうい)を表す存在でしかないが、「城」だけは例外だ、とドイツ文学者の池内紀(おさむ)さんはいう。
Kは、城の役人が寝泊まりする料理屋で給仕女のフリーダと巡りあう。Kを雇った城の高級官僚の愛人でありながら、フリーダは瞬時にKを愛してしまい、犬のように抱擁をむさぼり、いじらしい守護天使のようにつき従う。
やがてKと仲たがいし離反してしまうフリーダには、カフカに愛され、しかし絆(きずな)をほどかれてしまった恋人たちの面影が投射されているというのだ。
フェリーツェ・バウアーは、カフカとの2度の婚約を、心ならずも破棄されたユダヤ人女性だ。
交際していた約5年間、カフカの内心を、こんなジレンマが苛(さいな)んでいた。
――彼女なしでは生きられないが、彼女とともにも生きられない。
結婚を妨げた優柔不断
石畳の小路が不定形に折れ曲がり、分岐するプラハの裏町を、カフカは夜な夜な、吹きすぎる夜風のような早足で、飽くことなく徘徊(はいかい)していた。
この風変わりな散歩は、沈思して物語の着想をじっくりと醸成する時間でもあり、小説を執筆するための助走のようなものだったらしい。
朝8時から午後2時までの労働者傷害保険協会の勤めから解放された時間のありったけを、カフカは小説にささげたがっていた。真夜中まで骨身を削り、衆目に触れるあてのない奇妙な物語をせっせとノートに書きつけた。
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カフカの生い立ちは、驚くほど狭小な世界に閉じこめられていた。
19世紀末まで旧市街広場に隣り合って存在していたユダヤ人地区の一角の生家から、一家は裕福になるたび、よりぜいたくな住まいへ転々と移り住んだが、旧市街広場から離れたことはなかった。小学校からギムナジウム(中学校)、法学博士号を授けられたプラハ大学まで、いずれも広場から歩いて3分以内、就職先の保険協会でさえ10分弱で通える距離にあった。
大人になるまで、どころか、初めて親元を離れて一人暮らしできるようになった30歳ごろまでの半生は、ほぼ半径500メートルの円環で閉じられた世界からはみ出すことなく自足、完結していたのである。
この狭小な世界で、奇怪な「城」の官僚機構のような問答無用の権力をふりかざしたのが父ヘルマンだった。親離れできかねていた長男のカフカは、実利を生まない小説に無理解な父ヘルマンの独善的な権威に反発しながら、逆らえない。人なみの結婚と独立はひとまず、愛憎が交錯する家族の葛藤(かっとう)の鎮静剤にはなるはずだった。
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フェリーツェ・バウアーは1912年8月、29歳のカフカと偶然、対面したとき、ドイツのベルリンにあった口述録音機製作会社に勤めていた。25歳の若さで業務代理人という要職をまかされ、仕事でプラハを訪れていた。
ひと月余りたってから「もはや僕のことなどご記憶にないかも知れません」と、はにかみ交じりに書き出されたカフカの手紙が届いた。彼女はその後の約5年間に約500通もの手紙をカフカから受け取ることになる。
カフカはフェリーツェに運命的に引き合わされたと確信し、「そのとき揺るぎようのない判決を受けていた」と日記に書き残している。
「彼女は仕事も有能で、男の言いなりにもならない。当時は少数派の自立した女性でした。カフカは能吏でしたが、私事では別人のように優柔不断に変わり果てる人でした。ごくありふれた結婚願望の片隅で、甘えられる相手を探し求めていたようです」とドイツ文学者の池内紀さんは推し量る。
ところが、優柔不断は結局、結婚の妨げにもなってしまった。
婚約を交わし、新婚家庭の日常がリアルに想像できるようになると、小説の執筆に全身全霊で打ちこめなくなる恐怖にたじろいでしまうのだった。
「彼女なしでは生きられないが、彼女とともにも生きられない」という独白は、その皮肉を如実に表している。
カフカ研究の大家として名高いドイツ人のクラウス・バーゲンバッハさんは、こう語る。
「カフカは手紙の一節に、筆記用具とランプを持って隔離された地下室に住み、運ばれてきた食事を食べるか、書くかしているのが最良の生活方法だと書いています。彼はそれが天職であり使命であると信念を抱いた文学と、人としてのありきたりの生活を、内面で滑らかに統合できなかったのです」
最初の婚約が破棄された3年後の2度目の婚約は、直後にカフカが結核と診断されたことを理由に解消した。病は自責の念をやわらげたことだろう。
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保養地で親しくなったユダヤ人、ユーリエ・ボリツェクとの婚約も実らなかった。貧しい靴屋の娘だったので、ヘルマンが猛反対したためでもある。同じころ、チェコ人の女性ジャーナリスト、ミレナ・イェセンスカとも親密になるが、彼女には夫がいた。最後の恋人が19歳年下のユダヤ人、ドーラ・ディマント。腹が立つほど優柔不断ではあったが、カフカには庇護(ひご)せずにおれなくなる引力があったようだ。
フェリーツェはカフカと別れた後、ベルリンの裕福な実業家と結婚し、ナチズムが台頭すると、スイスをへてアメリカへ逃れた。そんな危急のときまで、彼女はカフカの手紙の束を処分せずに持ち歩いていた。ミレナもカフカの手紙を捨てられず、政治犯としてナチスの強制収容所に送られる直前、亡命する友人に託していた。
こと手紙に関するかぎり、恋人たちも、やるせないほど優柔不断だった。
文・保科龍朗 写真・高橋洋