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愛の旅人

「涙そうそう」

森山良子と兄・晉

2007年04月14日

 高さ20メートルの絶壁の向こうには、水平線しかない。群青色の海から押し寄せる高波が、白いしぶきを上げて岬に砕け散る。

写真波照間島の最南端。月の光を浴びて、打ち寄せる波が白く輝いた=沖縄県竹富町で、10分間露光
写真3カ月かけて織った「あけずば織」を身にまとう上原美智子さん=沖縄県南風原町で
写真幼いときの森山良子さんと兄の晉さん=東京・代々木上原駅で、森山さん提供
写真市場は声を張り上げるおばあの天下だ=那覇市で
写真  

 琉球列島の南の端、「果てのウルマ(サンゴ礁)」を意味する波照間島(はてるまじま)。人が住む島では日本の最南端である。この島のかなたに「南波照間島」という幻の島があると伝承は言う。

 岬に立ち、幻の島で楽しく暮らしている亡き兄に思いをはせる妹――。歌手の森山良子さん(59)が作詞した歌「涙(なだ)そうそう」をモチーフにした小説の結末だ。岬の先端に立って海を見ていると、強い風に乗って沖から白いものが飛んできた。大きなチョウだ。一瞬、幻の島から来たかと錯覚する。

 風にあおられたしぶきが飛び、ほおをぬらす。作詞のいきさつを語る森山さんのほおを伝った涙を思い出した。

 沖縄のバンドBEGIN(ビギン)作曲のテープが届いたのは98年。「涙そうそう」というタイトルの意味を問うと、涙がポロポロこぼれる様子だという。そのとたんに思い出したのは、23歳の若さで急死した兄「晉(しん)ちゃん」だ。その夜、封じた思いを吐露するように泣きながら詞を書き始めた。

 古いアルバムめくり/ありがとうってつぶやいた/いつもいつも胸の中/励ましてくれる人よ/晴れ渡る日も雨の日も/浮かぶあの笑顔/想(おも)い出遠くあせても/おもかげ探して/よみがえる日は涙そうそう

 ふたりだけの年子の兄妹。取っ組み合いのけんかをして育った。同じ高校でクラブ活動も同じバスケットボール。死の直後はだれを見ても兄に見えた。思い出すと苦しく、家族はだれも兄のことを口にしない。居間の棚から赤い革表紙のアルバムを取り出し、兄の影を追ってはひとり泣いた。

 一番星に祈る/それが私のくせになり/夕暮れに見上げる空/心いっぱいあなた探す/悲しみにも喜びにも/思うあの笑顔……

 つらい思いをした日、一番星を見上げると星が瞬いた。「メソメソすんなよ。助けてあげられなくて悪いけど、お前もがんばれよ」と兄が語りかけた気がした。星に願いをかけてがんばれば、きっと何か達成できると信じた。

 森山さんは1月、「この広い野原いっぱい」でのデビューから40年になった。すべて順調だったわけではない。沖縄がテーマの「さとうきび畑」では最初、10分18秒の長さを歌い通す歌唱力がなく、非力を思い知らされた。「真剣に歌に立ち向かっているうちにサトウキビ畑がふっと私の心に入り、『いいよ、もう』と許してくれた。それまでに30年以上かかった」と言う。

 その間、勇気づけ次のステップに引っ張ってくれたのが兄だった。「兄は私の中で神様になった」。悲しいにつけうれしいにつけ、今もその日の出来事や思いを、一番星に向かってそっと打ち明ける。

泣いて踊る「おばあ」の心

 森山良子さんは03年に沖縄をコンサートツアーで回った。本島北部の食堂に立ち寄ったさい、近くに住むおじいさんが黄色に変わった古い手書きの楽譜を持ってきた。森山さんの昔の歌だ。感激し、お礼にギターを取り出して歌った。すると周りにいた6、7人のおばあさんたちが踊り出した。踊りながら、やがて泣き出した。

 森山さんは「おばあ」の涙に打たれた。貧しい中、自給自足しながら生き抜いたおばあたち。つらい人生があったに違いない。その思いが噴き出ていると思うと森山さんも涙があふれ、泣きながら「涙そうそう」を歌った。

♪  ♪  ♪

 おばあの涙にどんな意味があったのか。現地を訪ね、おばあを探した。

 沖縄本島の最北部、山原(やんばる)地方。急傾斜の山がエメラルド色の東シナ海に迫り、海沿いのわずかな平地に赤瓦の古い家がひしめく。シークワーサーの産地、大宜味(おおぎみ)村の国道沿いに郷土料理店「笑味(えみ)の店」がある。伝統的な料理を復活させようと金城笑子さん(58)が始めた。周囲のおばあたちが育てた野菜を食材とする。

 森山さんが歌ったのは、この店だ。近くに住む元高校音楽教師の奥島廣さん(88)が楽譜を持参したおじいさんで、楽譜には30年前の日付があった。踊りながら泣いたおばあの中には、91歳の平良(たいら)節子さんがいた。

 平良さんは40歳から40年間、開拓移民として石垣島の明石地区で働いた。1ヘクタールの荒れ地を夫と開墾してパイナップルを栽培し、養蚕をして雨の日は機織りをした。牛小屋のような茅(かや)ぶきの家に暮らし、7人の子を育てた。サツマイモが最高の食事だった。マラリアにかかり一家全滅を覚悟したこともある。医者はおらず、40度の熱に苦しむ子にやかんで水をかけて冷やした。密林を歩いて墓にする場所を探した。

 平良さんに涙のわけを聞いた。森山さんの歌を聞いていると、石垣島でさんざんな目に遭い人生で一番がんばった時代を思い出したという。それだけではない。「森山さんは遠くから来て田舎のおばあのために歌ってくれた。生きていればこういうこともあるという喜びの涙でもありました」と話す。

♪  ♪  ♪

 その石垣島明石の蚕が吐き出す12マイクロメートルの極細の糸を使い、本島南部、南風原(はえばる)町の上原美智子さん(57)は薄絹を織る。トンボの羽を指す「あけずば織」だ。糸は3000メートルで1グラムしかない。白く透き通った布は羽衣のように、空中にふわりと浮かんだ。

 織りながらふっと思い出すのは亡くなった兄の笑顔だ。ウルトラマンの原作者、金城哲夫さんである。円谷プロに入り24歳で脚本家となった彼は76年、37歳で他界した。同年の沖縄国際海洋博の閉会式の演出を任されたがうまくいかず、仲間からは「国の手先」となじられた。酒に逃げ、酔って2階のひさしから足を滑らせ転落死した。精力的であると同時にガラス細工のような繊細さを持つ人だったという。

 織物を仕事とすることに父母は反対した。賛成してくれたのが亡き兄だ。そのとき兄に「1本の糸に惚(ほ)れるような仕事をしなさい」と言われた。「その言葉が私の中に沈殿し、時々思い出します。兄の言葉に従って自分の世界を究める仕事をしてきました。兄が天国から今の私を見て、誇れる仕事をしていると思ってくれたらうれしい」

 兄の死から1年としないうちに母が亡くなった。そのとき上原さんは6カ月の赤ん坊をおなかに宿していた。ショックで2度も流産しかけたが、長女が生まれた。命のたくましさとはかなさを同時に感じた。

 身近な人々が次々に他界する中、上原さんはこう思うようになった。「人は時間をもらって生かされている。死んだ人があとに残すのは、よく生きなさいというメッセージなのね」

♪  ♪  ♪

 「涙そうそう」の小説は、脚本家の吉田紀子さん(47)が弟と共作した。森山さんの歌をもとにTBSが開局50周年を記念して映画を制作。自ら書いたその映画の脚本を膨らませた。

 吉田さんは森山さんの沖縄公演のさい、たまたま与那国島にいて中学校の体育館で「涙そうそう」を聞いた。2年前に急死した母を思い出し、声を殺して泣いた。東京に帰って数日後、TBSから「涙そうそう」の映像化を相談され、「書きます。書かせて!」と答えた。

 母の死後、夕暮れによく空を見上げた。だから一番星に祈るという歌詞に共感した。「それまで脚本で人を殺すのは嫌だった。母の死で、死は日常の中にあり避けてはいけないと知った。命と向き合う話を書こうと思った」

 だれもが、面影を心に探す人がいるだろう。「涙そうそう」を聴くとき、あなたはだれを思い出すのだろうか。

文・伊藤千尋 写真・会田法行

〈ふたり〉

 森山良子さんは日本ジャズ界のパイオニアとして名高いトランペッター森山久の長女として東京で生まれた。成城学園高校在学中の1967年にフォークシンガーとしてデビューした。学生運動が広がる中、「和製ジョーン・バエズ」と呼ばれた。

 69年に「禁じられた恋」がヒット、紅白歌合戦に出場。02年レコード大賞では「涙そうそう」で作詩賞、「さとうきび畑」で金賞、最優秀歌唱賞を受けた。今年3月には芸術選奨の文部科学大臣賞を受賞した。

 兄の晉さんとはベーゴマやメンコで遊んだ。晉さんはカントリーウエスタンや落語が好きで、中学から大学までバスケットボールをするスポーツマンだった。就職して2年目の70年、心臓病のため急死した。

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