結婚できないまま、竹久夢二(ゆめじ)と引き離された笠井彦乃(ひこの)。23年間の短い人生で最も充実していた夢二との生活を、日記につけていたことは意外と知られていない。東京に住む彦乃の腹違いの妹、笠井千代さん(86)の元には、その一部が写しで保存されている。B5判サイズよりひと回り小さな縦書きノート。手慣れた字で夢二へのひたむきな思いがつづられている。
観光客でにぎわう京都・二年坂。夢二と彦乃が通ったおしるこ店(左)は当時の面影をとどめている=京都市東山区で |
山あいにある金沢の奥座敷・湯涌温泉。夕暮れになると、街灯に街並みが映える=金沢市で |
二年坂は平日も観光客が絶えない=京都市東山区で |
湯涌温泉での夢二と彦乃 |
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東京・日本橋に夢二が開いた絵草紙店「港屋」で出会って2年8カ月。夢二との結婚に反対する父宗重(むねしげ)の目をごまかして彦乃が、京都・高台寺門前の夢二の借家にやってきたのは1917(大正6)年6月8日だった。日記は約1カ月後、7月5日から始まる。
一生のうちまたとない日。こんないい日はかつて覚えがない。自由でしかも責任のある一日一日を、よりよくより幸福に暮らしていくことが一番大切なことだと思う。
彦乃の創作活動はこの年、雑誌「少女の友」や「新家庭」に口絵が掲載されるなど本格化している。目標は院展入選。絵の勉強をしたいと、宗重を説き伏せて京都行きを実現した。あこがれの夢二との生活。そして絵の勉強。彦乃は期待で胸がいっぱいだった。
離婚後もずるずると続いていた夢二と前妻の他万喜(たまき)との関係も、京都に来てからは完全に切れていた。
同棲(どうせい)を始めて2カ月後。夢二との66日間に及ぶ北陸旅行は充実した日々だった。金沢で開いた「夢二抒情(じょじょう)小品展覧会」には彦乃も、夢二がつけた「山路しの」の名で出品。金沢・湯涌(ゆわく)温泉では、彦乃は初めて既婚女性の髪形の丸髷(まるまげ)に結い、記念写真を撮った。生涯で最高の時間だったに違いない。
旅の途中、彦乃は夢二への思いを日記につづっている。
夢二さんはいつまでたっても好きな人だと思った。好きだというより離れられない人だと思った。自分はどんなに幸福か知れない(10月13日)
だが、幸せはそう長くは続かなかった。翌年夏、彦乃は九州旅行中の夢二のもとに向かった別府で結核のため倒れる。宗重に連れ戻され、夢二と引き裂かれてしまった。なすすべもなく東京へ向かった夢二は、彦乃の日記を初めて読み胸を打たれる。
こんなに立派によい生活を願っていたしの(彦乃)に対して、私は何をしたろう。(中略)ほんとにすまなかった。おろかな、私を許しておくれ(18年11月14日、夢二日記)
夢二が彦乃への思いをつづった歌集『山へよする』を出版したのは翌年2月だった。病床の彦乃に読んでもらいたかったに違いない。小ぶりの装丁の歌集だった。
四十数年、彦乃の面影を追い求めてきた千代さんの心残りは、日記の写しが17年11月1日で終わっていることだ。その後の彦乃は……。日記の原本の行方は今も分からない。
誰にも邪魔されない旅へ
観光客でにぎわう京都・東山の二年坂(二寧(にねい)坂)。清水寺につながる石畳の両側には京人形、清水焼、甘味処……さまざまな店が並ぶ。その一角に竹久夢二が住んでいたことを示す石碑「竹久夢二 寓居(ぐうきょ)跡」が立っている。
夢二が笠井彦乃の到着を待ちながら、次男不二彦と生活を始めたのは1917(大正6)年2月1日だった。
3月15日、彦乃あての手紙には次のように書いている。
逢(あ)える日がだんだん近づいて来る。(中略)せっかくここまでこぎつけたのだから、うまくしっぽを出さないように。(中略)なんだか遠くから花嫁さんをもらうような心のさわぎがおかしい。
山へ 夢
結婚に反対する彦乃の父宗重の目をごまかすため、ふたりは手紙では、お互いを「山」(彦乃)、「川」(夢二)と呼び合っていた。
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当時の夢二の住まいは、おしるこ店「かさぎ屋」の隣にあった。彦乃への手紙の6日後、高台寺門前に引っ越したが、ふたりはその後もしばしばこの店を訪れている。
かさぎ屋は現在もほぼ当時の姿のまま石段の途中にある。店を手伝う早川良子さん(63)は義母の寿栄さん(92)から、先代の話として夢二と彦乃のことを聞かされてきた。
「先代は東京の出身だったことから夢二さんと気が合い、よく話をしたようです。彦乃さんはしるこセーキが好物だったそうですよ」
夢二宅に新聞記者たちが訪ねてくると、彦乃は裏口から逃れて、かさぎ屋に来たといわれている。
高台寺門前の夢二の借家があったあたりも当時の面影をとどめている。その一角に住む一谷(いちたに)ひさ子さん(76)は「夢二の家は玄関の電灯に、ひらがなで『たけひさ』と書かれていたそうです」と話す。女学生たちが見つけては「竹久夢二の家よ」と騒いだという。
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JR金沢駅からバスで40分ほど。彦乃と夢二が充実した時間を過ごした金沢・湯涌は金沢市郊外の山あい、9軒の温泉旅館が営業している。
ふたりが不二彦を連れてこの温泉地にやってきたのは17年9月24日。食中毒になった不二彦の静養を兼ねていた。雨の中を人力車で到着した夢二たちは、当時は3軒しかなかった旅館のうち一番奥の「温泉旅館 山下新右ヱ門」(現在は、お宿「やました」)に泊まっている。
おかみの山下絹子さん(59)が先代の時雄さん(78年死去)から聞いた話では、夢二は「なよなよした印象」だったという。当時の湯涌では、まだ夢二の名を知る人はほとんどなく、夢二の絵の価値もわからなかった。夢二はこの旅館などのために3枚の絵を描いたとされ、旅館のロビーにはそのうちの1枚の美人画が飾られている。
夢二たちはこの旅館に約3週間滞在。夢二は女中をモデルに絵を描いたり、彦乃や不二彦と一緒に散策や川遊びを楽しんだりしている。彦乃の日記は約3週間の楽しい日々を、生き生きとつづっている。
今日もいい天気。舟と帆をこしらえて散歩に行く。川は夢二さんにおんぶされて渡る。馬鹿お舟は帆が重くてひっくりかえる。せっかく塗った色は、はげてしまう(10月9日)
「やました」は95年に改築し、夢二たちが宿泊した部屋はもうない。不二彦が舟を浮かべて遊んだという湯の川も一部が地下になってしまったが、旅館の窓から見える山の風景は夢二が描いた絵の雰囲気をとどめている。
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近くには、夢二が絵を奉納したという薬師堂があり、境内には夢二が湯涌で詠んだ歌の石碑が立っている。夢二が彦乃のために書いた『山へよする』の一首である。
湯涌なる山ふところの小春日に眼閉ぢ死なむときみのいふなり
こんな幸せな時は二度と来ないのではないかしら。それなら、いっそこのまま死んでしまいたいわ。そんな思いだったのだろうか。
温泉街の一角にある「金沢湯涌夢二館」の小林輝冶(てるや)館長(74)は言う。「当時の湯涌は山道を越えていく隠れ里みたいな所だった。ふたりには誰にも邪魔されない濃密な空間だったと思う」
湯涌夢二館には、夢二が死の直前まで左手にしていたというプラチナの指輪のレプリカが展示されている。裏に刻まれた文字は「ゆめ35しの25」。彦乃が数えの25歳で亡くなった時、夢二は数えの37歳。なぜか――。
夢二は「彦乃が死んだ時に私も死んだ」と公言したといわれるが、実際には、「彦乃と引き離された時に自分も死んだ」。夢二はそう思っていたに違いない。
文・佐藤昭仁 写真・永曽康仁