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愛の旅人

「娘道成寺」

安珍と清姫

2007年05月12日

 昔も今も、一目ぼれしたあげく、恋の相手に逃げられた恨み、つらみほど怖いものはない。

写真安珍・清姫の物語で知られる道成寺。境内には今年も桜が咲き誇った=和歌山県日高川町で
写真清姫が蛇体となって安珍を追ったという日高川の渡し場付近=和歌山県御坊市で
写真清姫が身を投げたという伝承が残る清姫淵=和歌山県田辺市中辺路町で
写真道成寺の安珍・清姫の像=和歌山県日高川町で
相関図  

 伝承によれば、逃げたのは、奥州・白河(福島県白河市)から紀州・熊野本宮(ほんぐう)大社(和歌山県田辺市本宮町)へ向かうハンサムな若い僧侶安珍(あんちん)。嫉妬(しっと)に狂ったあげく大蛇となって追いかけたのが、地元有力者の娘、清姫(きよひめ)。928(延長6)年、紀州中部の山あいを西へぬうように流れ、太平洋に注ぐ日高川のほとり、道成寺(どうじょうじ)(日高川町)が舞台である。寺創建から2世紀余りたっていた。

 安珍が隠れたのが道成寺の釣り鐘の中。7回り半も鐘に巻き付いた大蛇は嫉妬の炎を燃やし、中の安珍を焼き殺すという悲惨な物語だ。

 4月初めのある日、道成寺の桜も満開だった。「道成寺もの」の舞台や映画でも、満開の桜が色を添える。この日も安珍清姫伝説を求めて、多くの観光客がやってきた。日本舞踊の仲間同士という大阪の女性グループの一人は「道成寺は舞では最高傑作。舞が上達するようにお参りします」と話した。

 参拝客の目当ての一つが、道成寺に伝わる縁起絵巻(複製)を使った「絵説き説法」。平安時代以降、仏の教えのありがたさや地獄の怖さを、庶民に分かりやすく伝えるために広まった手法で、紙芝居の原形のようなものだ。

 院代(副管長)の小野俊成(しゅんじょう)さん(45)によれば「このような説法をしているのは、今では日本でも当寺だけ」。20年以上も説法を続けている小野さんの語りは、手慣れたもの。「ワンパターンですが」と言いながらも、ほぼ20分、聞き手の笑いを誘いながら、夫婦や家族のあり方を説く。「なるほど」とうなずく参拝客も多い。毎日7、8回、年に3000回ともなれば、数万人が説法に耳を傾ける。

 山を挟んで約60キロ離れた「加害者」側の清姫の里は、ひっそりとしていた。富田(とんだ)川の清流沿いの田辺市中辺路(なかへち)町真砂(まなご)周辺が清姫生誕の地。満開の桜に埋もれたような清姫の菩提(ぼだい)寺、一願寺(いちがんじ)(福巌寺)も近い。

 ここでの言い伝えだと、真砂の有力者と「白蛇の化身」との間に生まれたのが清姫。参拝の途中泊まった安珍とは相思相愛だ。たまたま蛇身となっていた清姫を見た安珍が逃げ、清姫はそれを悲観して身を投げて死んだ。

 真砂には清姫が身を投げたという清姫淵(ふち)や墓もある。00年に再建された清姫堂では、清姫の命日の4月23日に供養祭も開かれる。

 一願寺の檀家(だんか)で清姫堂の守り役の一人、庄司喜代和さんは「芝居や能で道成寺ものが有名になって、清姫の本当の姿はあまり知られていない」と寂しそう。清姫の分が悪い。

 伝説や伝承は、時とともに権力者の都合のいいように作り上げられる。それに地元びいきが加わり、ところ変われば、話も変わる。だから面白い。

歌舞伎や芝居に生きる伝説

 長い歳月が流れた。道成寺にもやっと新しい釣り鐘ができた。鐘に多くの恨みを残して、焼け死んだ安珍と清姫。その霊を弔うため、道成寺で「鐘供養」が開かれる運びになった。境内の桜は満開だった。

 そこに現れた美しい白拍子、花子。「ぜひ鐘の前で舞を……」。花子の願いに負けた所化(しょけ)(修行中の僧)らの前で、あでやかな舞を次々と披露する。やがて、花子は釣り鐘に巻き付き、清姫の化身と分かる。

 紀州の民話としては、安珍と清姫の物語は、鐘が焼け落ちたところで終わっている。

 「鐘にうらみは数々ござる……」。名せりふで知られる歌舞伎の「京鹿子(きょうがのこ)娘道成寺」、長唄や能の「道成寺もの」の多くは、安珍と清姫の後日談である。

♪  ♪  ♪

 この民話や各地に伝わる伝承を集大成する形で仏教説話集「大日本国法華験記」が1040年ごろに完成、安珍・清姫も宗教色が一段と強まった。

 安珍も清姫も法華の教えに救われ、熊野権現と観音菩薩(ぼさつ)の化身となって姿を現す。ただ、「ハッピーエンド」とはならない。当時の男尊女卑の思想から、安珍と清姫では天上での位が違い、同じ天上世界では暮らせないからだ。

 道成寺の小野俊成さんによれば、「安珍と清姫の物語は今風に言えば性スキャンダル。それまで100年以上の間、当時の道成寺の関係者は肩身の狭い思いをしたはずですね」となる。

 もともと嫉妬(しっと)の罪業を戒める仏教説話として生まれたこの物語は、16世紀初頭に能楽「道成寺」として初演、さらに江戸中期の1753(宝暦3)年、初代中村富十郎が、「京鹿子娘道成寺」として上演。若い娘が抱く恋の妄執の物語として、社会の隅々に広まっていく。

 仏教や儒教、封建思想にがんじがらめになった時代だからこそ、大衆は、現実離れした「悲恋」や色恋が絡んだスキャンダルにあこがれ、拍手喝采する。

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 物語では蛇も主役である。エデンの園でアダムとイブに性を教えた蛇が諸悪の根源だとされるキリスト教世界とは違い、日本や中国では古来、信仰の対象だった(吉野裕子(ひろこ)『蛇 日本の蛇信仰』)。

 伝承では、神武天皇の生母は竜蛇だったとされ、蛇というと毛嫌いする人の多い現代とは大違いだ。ちょろちょろと素早く動く蛇の舌は火を連想させる。口から炎を噴きながら、蛇となって安珍に迫る清姫も、強い生命力の象徴でもあった。

 4月27日は、釣り鐘の中で焼け死んだ安珍の命日とされ、安珍の鎮魂祭「鐘供養会式」の日である。

 道成寺の氏子らに担がれた緑色に塗られた大蛇の張りぼてが、蛇に姿を変えた清姫が泳ぎ渡ったとされる日高川の土手や日高川町の中心部を練り歩いた。大蛇は、道成寺の62段の石段を駆け上り、伝承を再現した。

 71年から始まったこの祭りは年々人気を呼び、張りぼての大蛇といっしょに鈴を振り鳴らしながら参道を練り歩く「ジャンジャカ踊り」も復活、多くの人出でにぎわう。

 釣り鐘も大切な脇役だ。道成寺の所在地は日高川町鐘巻。釣り鐘にちなんだ地名だが、境内には、鐘楼も釣り鐘もない。戦国時代の荒波は、道成寺の釣り鐘にも数奇な運命を運んだ。

 釣り鐘を作っても、すぐひび割れしたり、いい音が出なかったり。清姫のたたりとされ、長く釣り鐘不在の時代が続いた。

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 2代目の釣り鐘が、有力者から寺に寄進されたのは、焼け落ちてから400年以上たった14世紀半ば。その釣り鐘も、16世紀後半、遠征にきた豊臣秀吉配下の武将に奪われ、京都・妙満寺(京都市左京区)に持ち込まれてしまった。

 04年秋、420年ぶりにこの釣り鐘が一時的に里帰りした。盛大な法要や記念行事が繰り広げられたが、里帰りの期間は約2カ月。今もなお妙満寺の展示室に安置されている。

 道成寺境内にあるのは、安珍を祭った塚と、釣り鐘が焼けた時の火でねじくれたと伝えられる古木だけ。

 和歌山最古の名刹(めいさつ)になぜ長い間、釣り鐘がなかったのか。理由ははっきりしない。

 ただ、今となっては、釣り鐘で有名になったお寺に釣り鐘がないことが、参拝客や観光客の興味や関心を呼び、人が集まる理由の一つになっている。

 安珍と清姫の物語は、能、長唄や歌舞伎の世界だけでなく、それぞれゆかりの地に、それぞれの形でどっしりと根を下ろしている。

文・植木裕光 写真・塚原紘

〈ふたり〉

 道成寺に伝わる縁起によると、安珍は奥州・白河の田舎から紀州・熊野大社まで、はるばる仏道修行の旅を続ける見目美しい、若い僧侶。

 一夜の宿となった紀州・真砂の有力者の娘、清姫は安珍に一目ぼれ。「結婚してほしい」と、執拗(しつよう)に迫る清姫。たじたじとなった安珍は「熊野詣でを終えたら、必ず立ち寄る」と約束し、ひとまず難を逃れる。

 清姫はその約束を信じ、安珍の帰りを待つが、安珍は姿を見せない。だまされたと知った清姫は大蛇に姿を変え、安珍を追うのだが……。

 歌舞伎や長唄の「娘道成寺」はこの後日談。蛇となった清姫が美しい白拍子(しらびょうし)花子となって登場する。

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