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愛の旅人

石坂洋次郎「麦死なず」

五十嵐とアキ

2007年05月19日

 春うらら、秋田県内陸部のJR奥羽線。乗客のおしゃべりと笑い声が、聞くともなしに聞こえてくる。

写真石坂洋次郎の旧宅近くの学校橋からの眺め。明け方の川のせせらぎが辺り一面に響いていた=秋田県横手市で
写真横手城の展望台に上ると、町のかなたに山並みが広がった=秋田県横手市で
写真石坂洋次郎が生まれた青森県弘前市。桜の花びらが城跡の堀を覆い尽くす
写真結婚したころの石坂とうら
写真  

 「……あそごに書いでらじゃ、見えねがったってが」(あそこに書いてあるじゃない、見えなかったの?)

 「あの男のひとど話しでくて、わざど聞いでみだのよ」(あの男の人と話したくて、わざと聞いてみたのよ)

 濁音の多い方言で冗談を言い交わしているのは、色白で整った顔立ちの、いわゆる秋田美人とおぼしきご婦人たち。よけいにおかしい。

 車窓に残雪を抱いた奥羽の山並みが映る。今読むと気恥ずかしいほど明朗快活な「青い山脈」も、こんな方言を多用すれば印象はだいぶ違ったものになっただろうと思った。

 原作者・石坂洋次郎の名は忘れられつつあるが、映画と「若く明るい歌声に……」の歌が大ヒットした「青い山脈」は中年以上ならみな知っている。1947(昭和22)年、朝日新聞に連載されたこの小説は、民主的な社会を目指す青春群像を恋愛を交えて描き、戦後文学の金字塔の一つとなった。今も新潮文庫に唯一残る石坂作品だ。

 しかし、石坂本人にとっての代表作は「青い山脈」でもなければ、やはり繰り返し映画化された「陽(ひ)のあたる坂道」でもなかった。

 講談社の文芸誌「群像」編集長を長く務めた大久保房男さん(85)は石坂に「僕の一番の代表作は『麦死なず』だよ」と言われたことがある。石坂の戦後大衆小説にはあまり関心がない大久保さんだが、戦前の初期作品には心引かれる。特に36年の「麦死なず」は今読んでも優れた作品と感じる。

 「私にとって死活をかけた一回ぎりの全力投球だった」と後に石坂が振り返ったその内容は、「赤裸々」という言葉そのままの魂の告白だ。

 冒頭、主人公五十嵐健太郎が妻アキに、出奔した左翼運動家・牧野三郎との「過ち」をもらされて衝撃を受ける場面から始まる。戦前に書かれたものとは信じがたい。しかも、ほぼ石坂の実体験に基づく話というのだ。

 昭和初年から約13年にわたり石坂が教員生活を送った秋田・横手。お城が穏やかな街並みを見下ろす小都市だ。石坂の妻うらの「家出」は地元の新聞記事になったという。71年に妻が他界した翌年、石坂は追懐して書いた。

 「私が強い個性の男だったら、十ぺんぐらいもお前と離婚していたろうが、私は生(うま)れつき愚図(ぐず)で消極的で、自分の意志で自分の環境を変える力を持たない人間だった。――結局、お前と別れないでよかったのだ。私は今でも無理がなくそう思っている」

 戦後、石坂は「百万人の作家」と呼ばれた。そこへ至る跳躍は、「麦死なず」の経験と葛藤(かっとう)が踏み台になったに違いない。その生き方は、無頼や破滅を美化しがちな芸術至上主義に対する強い批判に貫かれていた。

「青い山脈」までの葛藤

 再びJR奥羽線の車中。今度は中年男性の声が聞こえてくる。日曜大工の話題らしい。

 「……こしぇるのは、まがせなさい」(作るのは任せなさい)

 「何こしぇるってや。わらすが」(何を作るんだ。子どもか?)

 東北の人間は口が重いという説は、方言の劣等感がよそに比べて強いことが影響しているのだろう。仲間うちだと、気の利いた冗談や感心するほどうまい皮肉を言う人が多い。

 秋田・横手で旧制中学の教員をしていた石坂洋次郎についたあだなが「夜蚊(よが)」。やせて弱々しい印象の優男の像が浮かぶ。生徒たちは「夜蚊、小説書いでらど」とうわさした。

♪  ♪  ♪

 出世作となった「若い人」そして「麦死なず」を執筆したころ住んでいた家は、静かな旧武家屋敷町の一角にある。現在は元社会党衆院議員の川俣健二郎さん(80)宅となっている。

 川俣さんの父でやはり国会議員だった清音さんが石坂と懇意だったので、石坂家と接する機会が多かった。

 「石坂先生は物静かな人、奥さんは髪形も雰囲気もハイカラな人だなあと子ども心にも思ったね」

 インテリの夫は妻の無教養を軽侮しながらも優柔不断、家庭の主婦に収まるのが不満な妻は夫への反発も手伝って左翼運動にあこがれる――「麦死なず」ではそんな夫婦像が描かれた。

 石坂は妻うらの死後書いた文章で、その性格を「感電性」と表現した。女学生時代には教会の牧師と恋愛、その後文学青年の石坂と結婚。さらに左翼活動家にひかれる。しかし、信仰も文学も政治も妻には根を下ろさなかった、と冷静に記す。

 横手公園を下ると石坂洋次郎文学記念館がある。訪れるのは石原裕次郎や吉永小百合の主演映画の原作者として石坂を記憶する年配の人が多く、「麦死なず」を知る人は皆無に等しい。

 それでも、館内のビデオで石坂が自作の代表に「麦死なず」を挙げたことを知って解説員の加賀谷祥子さん(27)に作品の説明を求める人がいる。

 「どう話していいのか分からないくらいドロドロした内容」ではあるが、あらすじや石坂の体験を基にしたことを伝える。すると「(石坂は)なぜ別れなかったんだろう?」という反応が多い。

 「でも、よく読むと、主人公と妻は、互いを離せなかった関係だったことが分かります」

 そう語る加賀谷さんは、この作品が契機になって「文学を生活に優先させず、両者を調和させた石坂の創作態度」が生まれ、戦後の大衆作家としての成功が準備されたと考えている。

♪  ♪  ♪

 昭和の文学作品に詳しい元「群像」編集長の大久保房男さんも「封建的な考え方の残っていたあの時代、あの状況で家庭を再建したことで分かるように、芯の強い人だった」と指摘する。

 20代の石坂は、同じ津軽出身の作家・葛西善蔵(ぜんぞう)に私淑した。「私小説の神様」とたたえられた葛西は、一面で金銭面や女性関係にだらしなく、家族や友人、石坂を含む後輩に多大な迷惑をかけ続けた。

 誰より葛西を敬愛した石坂は、また誰よりも痛烈な批判者だった。「私自身は、葛西や太宰治のように、文学のために家族に辛(つら)い苦しい思いをさせる人間ではありたくない」と書いた。大久保さんによれば「石坂さんは本質的に甘ったれを嫌っていた」のだ。

 しかし、自己の不行跡をあからさまに書かれた妻うらの心理は察するにあまりある。石坂に涙ぐんで文句を言ったこともあったという。

 一方、石坂にしてみれば「この作品を書かなければ生きていく力が見出(みいだ)せない」ほど追いつめられていた。苦しい体験を文字に吐きつけて、かろうじて自己と家庭を立て直したといえる。

♪  ♪  ♪

 うらは戦後、執筆に追われる夫の内助に回り、出版社や映画会社との交渉窓口のような存在になった。マージャン好きで、万事に控えめな夫と対照的に歯にきぬ着せず物を言った。

 「悪妻」という陰口もあったが、その飾らず開けっぴろげな性格は、多くの関係者に愛された。73年に講談社から出た追悼録『天衣無縫』でそれがよく分かる。

 代表的な出版社の社長や池部良、吉永小百合らの俳優、定宿の番頭、従業員に至るまで、それぞれの言葉で明るい人柄を懐かしんでいる。

 妻の死後なお石坂は15年生きたが、老いを自覚して創作で無理せず、気取らず悠々としたエッセーを残した。

 晩年の文章の一節。「教師という社会の実務についたことと、妻並びに母親としてのうらの在り方とが、私を一人前の作家に育てあげた」

文・及川智洋 写真・戸村 登

〈ふたり〉

 商業学校教員の五十嵐健太郎の妻アキは左翼運動にひかれ、夫と子ども3人を残し、活動家の作家を追って上京してしまう。苦悩する五十嵐は曲折の果てに妻を迎えに行くことを決意。様々なごたごたを収拾し、家庭は再建に向かう。

 青森県弘前市出身の石坂洋次郎(1900〜86)は、旧制横手中学の教員をしていた36(昭和11)年、長編「若い人」で第1回三田文学賞を受賞。さらに同年「麦死なず」を発表して作家的な地位を確立した。この作品は昭和初期から活発になった左翼運動にかかわる人たちを批判的に描いて物議をかもした。戦後は大衆小説の旗手として活躍した。同郷の妻うらとは学生結婚で、石坂21歳、うら17歳のときだった。

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