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愛の旅人

「夫婦善哉」

ミヤコ蝶々と南都雄二

2007年06月30日

 渥美清の寅さんシリーズ全48作に、強烈な5分間がある。寅さんと言うと、このシーンを思い浮かべる。

写真ミヤコ蝶々と南都雄二が新婚時代を過ごした大阪・美章園。奥のガード下に新居があった=大阪市阿倍野区で
写真蝶々が拠点にした劇場・中座のあった道頓堀かいわい=大阪市中央区で
写真弟子の大原ゆうさんは蝶々からもらった人形や励ましの言葉を宝物にしている
図  
写真「夫婦善哉」の蝶々と雄二=(c)ABC

 第2作「続・男はつらいよ」(69年)で、寅次郎の生みの親・お菊を演じたミヤコ蝶々(ちょうちょう)のすさまじさだ。寅を生んだ直後に行方知れずとなり、いつか京都でラブホテルを経営している。

 瞼(まぶた)の母に会いに来た寅に、「ああ、銭か、銭はあかん、そんなもん、親子でも関係あらへん」。38年ぶりの母は悪たれ言葉と毒舌を浴びせかける。「やかましいやい、このアホ! 子を捨てる気持ちが手前なんぞに分かるか! このバカヤロ、出てゆけ!」。なんと憎たらしい。漫才で培った速射砲のような突っ込みと激しい演技が、寅のいい知れない寂しさをあおる。

 でも、心は優しい。本心を言えなかっただけだ。寅が去った後、彼女はホテルの階段にへたり込んで涙ぐむ。

 朝日放送の人気番組「蝶々・雄二の夫婦(めおと)善哉(ぜんざい)」のチーフプロデューサーだった馬場淑郎さん(75)は「お菊さんは、蝶々さんです」と言った。

 東京都世田谷区の東宝スタジオで映画監督山田洋次さん(75)に会った。吉永小百合さん主演の「母(かあ)べえ」の撮影を終え、編集中だった。「蝶々さん、圧倒されました」と切り出した。

 「寅さん」の前年、人情喜劇「吹けば飛ぶよな男だが」で初めて彼女を使った。ちんぴら役のなべおさみさんをかわいがるソープランドの女将(おかみ)役だ。 コンドームの一件を忘れない。やくざ稼業から足を洗い外国船で旅立つ彼に、蝶々が「これに気いつけや」と小指を立ててコンドームの箱を投げるラストシーンを撮っていた。山田さんは聞いた。「蝶々さん、これ、(ソープランドから)持ってきたのか、途中の薬屋で買ったのか、どっちが自然でしょう。薬屋なら包装してないと……」

 「お兄さん」。蝶々はいつものように山田さんをそう呼んだ。

 「そんなこと簡単や、わてが使ってんのや、バッグに入ってんのや」

 山田さんは「ぎょっとした」。女将は生身の女、現役なのやと言うのだ。「人間の生き様を平然と、どかっとさらけ出す」。この人の激しい人生を思った。寅の母は彼女しかなかった。

 蝶々は自分自身をこう表現した。

 私にはミヤコ蝶々と日向(ひゅうが)鈴子(本名)という2人の女が同居してます。蝶々は気性が激しく、わがままで自分にも他人にも厳しい。スターぶってる。鈴子は気が弱くて、泣き虫。恋にはめっぽう弱い……。この2人がののしり合い、慰め合い、同じ人間であることを悲しみ、二つの心を哀れんでる――。

 南都(なんと)雄二は、そんな女の弟子であり、夫であり、別れた後も「相方」だった。そして、結局、蝶々の「ふところ」に戻り、逝った。48歳だった。

 ふたりの関係を蝶々は言った。

 「恋とか、愛とか、軽いもんやない。人間と人間や」

ボチボチ…がない人やった

 ミヤコ蝶々は芝居を終えるといつも、客席に話しかけた。巧みな話術の「独り語り」は評判だった。

 「私って、もてる男にほれますねん」。そう言って「2回も男を取られた。すご、悔しい。財布取られたって、腹立たへん……」で笑いをとる。

 2回とは17歳上の三遊亭柳枝と、4歳下の南都雄二だ。

 「恋多き女」と誰もが言う。離さなかった三つ折りの写真立てがある。中央に父、左右に柳枝と雄二がほほえんでいる。楽屋入りすると鏡台の前に置き、線香とお茶を供える。「何か、話しかけていました」。弟子で俳優の大原ゆうさん(42)は思い出す。

 「先生、恋をすると、しぐさも女っぽくなって、かわいい。でも、別れたって結局、この3人でした」

♪  ♪  ♪

 蝶々と雄二の出会いは戦後、最愛の夫柳枝の浮気がきっかけだった。劇団の「無口で純情な青年」と結ばれる。生活は苦しく、漫才コンビを組んだが、なにしろ、女房は根っからの芸人、夫は郵便局の元電気係、ずぶの素人だ。妻の特訓は厳しかった。

 大阪・JR美章園(びしょうえん)駅そばのガード下に4畳半と2畳の「新居」を借りた。ラジオの「漫才学校」「夫婦善哉」と、忙しくなるにつれ、雄二は少しずつ、蝶々が煩わしくなってきた。

 「そりゃ、毎日、怖い校長と生活してるようなもんや」。タレント喜味こいしさん(79)は自らも生徒役で出演した「漫才学校」を引き合いにした。番組で蝶々が校長、雄二は用務員役だった。「雄さんは蝶々さんのこと、よう、ぼやきよった。わいには、重すぎる、大きすぎるんや、って」

 そんな雄二に女性がいた。子どももいる。雄二とは別れたけれど、「夫婦善哉」はやめられない。テレビ放送も始まり、視聴率は30%を超えていた。

 「しんみりと心と心で付き合えた」のは雄二の入院だった。持病の糖尿病が進行し、沖縄で倒れた。妻の不倫も発覚、うちひしがれていた。蝶々は懸命に世話をした。車いすを押し、病院を歩いた。ある日、雄二が言った。「あんたは、生きることに強すぎる。ボチボチ……がない人やった」。蝶々を頼りながら、73年に亡くなった。

 寂しがり屋の彼女はなおさら、人恋しさを募らせた。話し相手を欲しがった。大原さんも毎晩、相手をした。明け方まで続く。「先生から、芸人の生き方を教わった。でも、つらかった」

 5分程度だった舞台の「独り語り」も次第に長くなった。話し出すと止まらない。1時間を超えた。同じ話を繰り返し、会場がざわつく。楽屋に戻っても、共演者は帰った後だ。家に帰っても誰もいない。開演時間も遅らせ始めた。「語り」で「お客様は親戚(しんせき)です」と訴えるように繰り返した。

 気の弱い「日向鈴子」だった。

♪  ♪  ♪

 松竹関西演劇部のチーフプロデューサー上田浩人さん(46)は大阪・中座の支配人として蝶々を担当した。94年夏、京都・南座の公演を終え、蝶々と四条大橋を歩いた。鴨川は若いカップルでいっぱいだった。「何が、おもろいんやろか……」と蝶々が言った。上田さんが「世の中、男と女ですから」と返すと、神妙な顔になった。

 「しょせん、男と女、別もんや」

 芝居を支えた劇作家小国正皓(まさあき)さん(73)は蝶々宅から大好きな犬がいなくなったのを見かね、マルチーズをあげた。病気がちの彼女を励ましたかった。3月だから蝶々はヒナコと名付けた。毎朝、ベッドの主人を起こした。

 2年半後の00年10月12日、蝶々は慢性腎不全で逝った。80歳だった。

 通夜の日の朝、ヒナコは布団に横たわる彼女の胸に上がり、しきりに起こそうとした。小国さんが引き取ったヒナコはいま、9歳になった。テレビで蝶々の声がすると、あたりを見回す。

♪  ♪  ♪

 新聞記者だった上田文世さん(64)は晩年の蝶々を追った。メモに97年6月18日の「独り語り」がある。

 「わたし、好きな道をやってたら金も大きくなりました。どいう風にしようと考えてんですが、相談する人おまへん。うちに犬、5匹おまんね。犬に相談したった。ママが死んだらお前らも困るやろ。ここに50万ずつ、つけといてやるから、それを持って養子に行けよ。おかしいもんですな。じいっとこっち見て涙ぐんどりまんねん。ひょっとしたらこの子、わたしが生んだんやなんやな、と思うとりました。いま、そうして暮らしてますねん……」

 大阪府箕面市の蝶々宅を訪ねた。2階建ての白い豪邸は静まり返っていた。傷み始めた壁が寂しさを募らせる。閉ざされた勝手口に、犬の鑑札がしっかり留めてあった。ヒナコのもあるのだろうか。全部で七つあった。

 そこだけが、にぎやかだった。

〈ふたり〉

 ミヤコ蝶々は日本橋生まれの江戸っ子だ。4歳のとき、父栄治郎は芸者さきと蝶々を連れて神戸へ駆け落ち。芸事好きな父は7歳の蝶々を座長に一座を組み、旅回りを続けた。

 1942年、吉本興業に入り、漫才の三遊亭柳枝(りゅうし)と結婚、戦後は「柳枝劇団」で巡業する。柳枝の浮気で47年、弟子の南都雄二と結ばれたが、生活苦から覚せい剤中毒で入院した。54年、ラジオの「漫才学校」に夢路いとし、喜味こいしらと出演。翌年に素人夫婦とのトーク番組「夫婦善哉」が始まり、58年に雄二と離婚した後も、「夫婦善哉」のコンビは雄二が長期入院する72年まで続いた。74年から大阪・中座を拠点に作・演出・主演の一人三役の芝居に情熱をささげた。

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