君に似し姿を街に見る時の こころ躍(をど)りを あはれと思へ
この牛たちの「ご先祖さま」の乳から作られたバターを啄木は味わったかも=北海道岩見沢市の北村牧場で |
霧につつまれた北村牧場の朝=北海道岩見沢市で |
啄木が住んだ青柳町の坂から、よく散策した大森浜が見えた=北海道函館市で |
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啄木と智恵子 |
かの時に言ひそびれたる 大切の言葉は今も 胸にのこれど
これら石川啄木の歌集『一握(いちあく)の砂』の「忘れがたき人人(二)」にある22首の歌はすべて、たった一人の女性、橘(たちばな)智恵子を詠んだものである。
ふたりは1907(明治40)年の3カ月ほど、北海道・函館の弥生尋常小学校で同僚教師だった。智恵子の印象を「真直(まっすぐ)に立てる鹿ノ子百合(かのこゆり)」と記す啄木は、学校を辞めて札幌に移る前日に智恵子の下宿を訪ねて2時間話し、詩集『あこがれ』を贈った。翌年に上京後の日記には「なぜかたまらないほど恋しくなってきた。『人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから会いたい!』。そう思った」としたためた。
啄木が出版したばかりの歌集『一握の砂』を郵送すると、智恵子から届いた礼状は北村姓だった。「お嫁には来ましたけれど心はもとのまんまの智恵子ですから」とあり、嫁ぎ先の牧場で作られたバターが送られてきた。
啄木が恋いこがれた橘智恵子とは、どんな女性だったのか。啄木が北海道漂泊の旅に出て100年になるのを機に、私は智恵子を訪ねる旅に出た。
啄木が育った盛岡市玉山区渋民(しぶたみ)に立ち寄って北海道に渡り、函館、札幌を経て岩見沢に着いた。
駅から車で20分走ると、智恵子が嫁いだ北村牧場だ。入り口には「石狩の空知郡(そらちごほり)の牧場のお嫁さんより送り来しバタかな」という啄木の歌碑と、「鹿子百合の碑」が立つ。
智恵子の夫の北村謹(きん)が結婚の翌1911(明治44)年に開いた北村牧場は、牧場の名がそのまま地名になるほど発展した。今は、智恵子の長女道子さん(95)の長男になる中曽根宏さん(68)が経営している。35ヘクタールの敷地に牛80頭と12ヘクタールの小麦畑を持つ。
道子さんは、母智恵子を「物静かな厳しい人。賛美歌をよく歌っていた」と、父謹を「きちょうめんな性格で、字引を引きながらアメリカの機械を使い、青年に剣道を教えた」と思い起こす。写真の智恵子は眉が濃くきりりと引き締まった表情だ。謹は背が高く額が広く意志が強そうな顔で、啄木と違っていかにも生活力がありそうだ。
啄木が智恵子に贈った2冊の本は智恵子の長男の妻千寿子さん(87)が保管していた。『あこがれ』の表紙をめくると「別れにのぞみて橘女史に捧ぐ」という啄木の文字と朱印がある。
『一握の砂』の裏表紙の見返しには本を郵送した数日後に智恵子に送ったはがきが張り付けてあった。日付は明治43年12月24日である。クリスマスイブに書いたのは智恵子がクリスチャンであることを意識したのだろうか。
達筆の文章の2カ所に、いったんはった紙をはがした跡があった。紙をはったのは智恵子である。下の文字を他の人に見られたくなかったのだ。
隠された文字の秘密は
大正時代に建てられ、れんがの外観が趣深い函館市文学館。ちょうど石川啄木来函100年記念の直筆資料展が開かれていた。館長の和田裕さん(60)らに橘智恵子について聞くと、奥から謄写版刷りの文書を出してくれた。智恵子の兄儀一(ぎいち)の手記だ。
文学青年だった儀一は、智恵子の死後、啄木が贈った『一握の砂』を探した。見つけたのは7年後だ。はがきにはられた紙をはがすと「君もそれとは心付き給ひつらむ」「さすらふ者のはかなき心なぐさみをあはれとおぼし下され度」という文字が現れた。掲載した歌が智恵子を詠んだことに「あなたもお気づきでしょう」という意味だ。いわば歌に託した恋の告白である。
すがるように切なく同意を求める啄木。明治の時代、しかも人妻となったばかりの智恵子は、この文言を他人に見せるわけにはいかなかったのだ。
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この手記で儀一は、現実の智恵子はさほど美しいとは言えず、あだ名は「ねまりべこ(寝牛)」だと書いている。一方で、智恵子は「理性の女」で、熱情の詩人啄木は冷静で強く純潔な理性を求め、智恵子を「無垢(むく)な天使」と感じたのだろうと分析する。
智恵子は馬鈴薯(ばれいしょ)の花が好きだった。「根に充実した力を持ち地に咲き出る純白のこの花は、私にふさわしい」と話していたという。「馬鈴薯の花咲く頃となれりけり君もこの花を好きたまふらむ」という啄木の歌を思い出す。
その上で儀一は「果たして啄木君のは片恋であったろうか。妹がいかに理性の女でも、歌人の情熱に何も感じなかったろうか」と疑問を投げかける。
同じ疑問を盛岡市にある石川啄木記念館の学芸員、山本玲子さん(50)から聞いた。18年も啄木を研究し、イベントで啄木のロボットと結婚式を挙げたほどの啄木好きだ。ふたりが交わした手紙の日付を示し、説明してくれた。
1909(明治42)年1月、智恵子から啄木に手紙が来て、翌日に啄木は返信した。2月には智恵子の母から啄木に智恵子の入院を告げるはがきが来た。啄木は見舞いの手紙を書き、3月に母親から智恵子の退院通知が来る。翌日、啄木は智恵子に手紙を出し、4月には智恵子から近況報告が来る。ところが啄木は返事を書かない。半月後に智恵子からまた手紙が来る。啄木が返事を出したのは6月で、そっけない絵はがき1枚だった。
「度重なる手紙に智恵子も淡い恋心を抱き、それを感じた啄木は『これ以上近づくと危ない、清い思いでいたい』と引いたのではないか。啄木のそっけないはがきに、智恵子は『その程度か』と考えたのかも」。山本さんはそう想像する。
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手紙を激しく交換したこのころ、啄木は書いた小説が出版社に売れず、貧困と病の極にあった。啄木が智恵子の歌を詠んだのは、こうした逆境に加えて妻節子が家出するなど家庭的な不幸も背負った時期である。絶望の中で気弱となった心に、良き時代だった函館が思い出され、それが智恵子という一人の女性に結晶したのではないか。
札幌市の智恵子の実家を訪ねた。東区の住宅街にある「林檎(りんご)の碑」は、智恵子の父でリンゴ栽培を広めた橘仁(じん)をたたえる。今の当主は仁のひ孫の仁志(ひとし)さん(60)だ。智恵子の結婚写真のほか、啄木の手紙2通が伝わる。「収集のために切手を切り取ったので日付が不明」と妹の恭子さん(59)は笑った。
その後、私は小樽、釧路と回った。どの街にも「啄木通り」がある。釧路では啄木通りのバス停すべてが啄木ゆかりの名で、83の街路灯には啄木の歌を書いた垂れ幕が下がっていた。
国際啄木学会もある。90年から毎年、学会が開かれ、今年はインドネシアである。評議員を務める釧路の啄木研究家北畠立朴(きたばたけ・りゅうぼく)さん(66)によると、啄木の歌は覚えやすく訳しやすいため外国にも広まっているという。
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「千の風になって」を作曲した新井満さん(61)は「啄木の歌はラブソングのお手本」と語る。啄木の歌に曲をつけた「組曲ふるさとの山に向ひて」を6月20日に出した。啄木が教えた盛岡市立渋民小学校の5年生40人が合唱で参加した。同2日には渋民で啄木祭があり、600人が新井さんの曲を歌った。新井さんは「石もて追われた啄木が故郷に迎えられた」と感動した。
指揮者の小林研一郎さん(67)は10歳のとき「東海の小島の磯の……」に曲をつけた。阪神大震災の被災者を励ますコンサートで自ら伴奏し歌った。
多くの人が啄木の歌にひかれる。啄木の歌碑は全国に165あり、うち17は個人の自宅の庭に立てたものだ。
人はだれも心に「忘れがたき人」を抱き、ふと思い出しては、詩情とともに懐かしむのかもしれない。
文・伊藤千尋 写真・内藤久雄