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愛の旅人

「和泉式部日記」

和泉式部と敦道親王

2007年07月14日

 恋人が急死してまもないころ、その弟が使いを寄越し、歌に託して「こんどは、私とつき合ってくれませんか」という。女はものを深く考えない性分だったうえ、それまで男抜きで長く過ごしたことがなく、いらいらしていたので、ついその気を見せてしまった。

写真「物おもへば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」(和泉式部)=京都市左京区の貴船川で
写真和泉式部と敦道親王も見物した葵祭(あおいまつり)=京都市左京区の下鴨神社で、ケン・ヤマシタ撮影
写真「身投げ岳」に立つ法華岳薬師寺の福嶋峯林尼=宮崎県国富町で
相関図  

 『和泉式部日記』はこんな場面から始まる。恋人とは冷泉(れいぜい)天皇の第3皇子為尊(ためたか)親王で、女のもとに通うため夜中に出歩き、流行病に感染して死んだ。弟というのは第4皇子の敦道(あつみち)親王。女は和泉式部その人である。

 男23歳。女は30の少し手前か。以降、ふたりの間に恋の歌の応酬が延々と続く。お互いに、じらし、すね、なじり、泣きつき、甘え。歌を通した駆け引きは、読んでいて息詰まる。

 同時代の女性作家に手厳しい批判を加えた紫式部は、職場の同僚でもあった和泉式部の歌風について、「素行に問題があるが、激情に駆られるまま口をついて出る歌に、必ずおもしろい一節がある」と記している。

 与謝野晶子は和泉式部の心酔者で、自らも情熱的な歌を詠んだが、夫の鉄幹(てっかん)に「まだ和泉式部に及ばない」と言われて、しゅんとなったそうだ。

 和泉式部はそんな歌人だった。最初の結婚で小式部内侍(こしきぶのないし)が生まれたとき、「つき合っている男が多い。だれが父親なのか。夫の子だとどうして定められるのか」とまで言われて作った歌。

 この世にはいかがさだめむおのづから昔をとはむ人にとへかし

 (現世では定められないことがあるもの。生前の所業を死後に裁く閻魔(えんま)さまに聞いてみたらいかがか)

 藤原道長が、和泉式部の扇子に「うかれ女(め)の扇」と落書きし、その好色ぶりをからかったときの歌。

 越えもせむ越さずもあらむ逢坂(おうさか)の関もりならぬ人なとがめそ

 (男女の逢瀬の関を越える者もあれば、越えない者もある。関守でもないのに、とがめ立てしないでほしい)

 こんな女性とわたり合った敦道親王も、端麗な容姿に加え、歌に巧みな才人だった。しかし、恋の最中にも、和泉式部にちょっかいを出す男が複数。恋敵と鉢合わせしかかったこともあって、親王は嫉妬(しっと)に追いつめられ、ついに女を拉致して自邸に住まわせる。正妻は憤然として実家へ帰っていった。

 出会いから10カ月、いまなら略奪愛と呼ばれそうな恋が成就したところで「日記」は終わる。

 和泉式部がいつももてていたわけではない。「おとこに忘れられたころ」京都北郊の貴船神社に参り、沢の蛍を見て、肉体から恋いこがれ出た魂に例えた有名な歌も残る。失恋の歌の方が多く、また優れているといわれる。

 貴船川に沿った参道はいま、「和泉式部 恋の道」と呼ばれ、ひとり旅らしい若い女性が黙々と歩いていた。川面から突然、奔放な女性の魂のようにアオサギが飛び立った。

千年の情念 今も生き続け

 法華岳薬師寺は、宮崎市から西北へ車で1時間ばかり、狭い尾根道を上りきった行き止まりにある。標高こそ270メートルに過ぎないが、宮崎平野と日向灘の眺望が広く開けている。

 小高い丘があって、一方が断崖(だんがい)である。「去年でしたか、30代の女の人ががけを飛び降りまして」と住職の福嶋峯林(ほうりん)尼(72)は話す。「下の木の枝にひっかかってあっぷあっぷしているところを助け出されました」

 この丘には「身投(みなげ)岳」と名がついている。晩年、皮膚病を病んだ和泉式部がこの寺にこもり、治癒を願ったものの、当初は効果がなく、絶望して身投げしたという伝説が残っているのだ。

♪  ♪  ♪

 和泉式部の生地と称する場所は全国に7カ所以上あり、死んだ、立ち寄ったというゆかりの地が200にも及ぶ。法華岳薬師寺はその分布の西南の端に当たる。そんな地方の伝承に注目し、背後に女性のネットワークを発見したのは民俗学者の柳田国男だった。

 諸国をめぐりながら和泉式部の歌や逸話を説く女性の芸能集団があった。なかには巡業先に定住する者もあり、当人も土地の人も本物の和泉式部と混同するケースが起こったという仮説である。伝承に共通点が多いことから、女たちには出動拠点があり、柳田は京都の誓願寺を想定している。

 「引っ越し3べん、火事10ぺんといいましてな」と誓願寺の畔柳正顕(くろやなぎ・しょうけん)執事長(78)は言う。7世紀に奈良で創建された古い寺で、移転と大火にたびたび見舞われた。その都度、再建の資金を募る勧進僧が全国に散っていった。

 「そんな僧が和泉式部伝説を広めた面もあると思う」と誓願寺本山課長の小島英裕(えいゆう)師(40)。勧進僧は寺の由来を説いた「誓願寺縁起」を携えていた。

 聞かせどころは、和泉式部がからむくだりだ。「好色世にすぐれ愛執いとふかき」女が、娘の小式部内侍に先立たれて、にわかに発心する。一遍(いっぺん)上人の前に亡霊として現れ、罪業の深い女ではあるが、成仏できるかと問う。

 すでに16世紀、誓願寺が女人往生で有名だったことは、当時の「洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)」に描かれた参拝者が女性ばかりであるのからもわかる。

 男たちの権力闘争をつづった表向きの歴史とは別に、文書に記されなかった女の歴史があったと、柳田国男は示唆している。そんな女性史の中で和泉式部はスーパースターだったと思われる。女の性の本能的な欲望にあくまで正直。性的魅力と文学的才能で男たちをなぎ倒す。世間の評判は気にも留めない。そして極楽往生。痛快である。

 和泉式部は、官位では五位、官職は地方長官止まりの家柄出身で、この階級の娘が上流貴族と交際するには、よほどの器量と覚悟が必要だった。

 「まして相手がセレブ中のセレブ、親王となれば、達成したときの気分は格別だったでしょう」と聖徳大学の山口博教授(75)は言う。

♪  ♪  ♪

 「咲くを誇り、しかし、散るをいとわぬ大輪の花」。和泉式部をこう形容したのは、法華岳薬師寺の峯林尼である。妙に実感がこもる言い方だった。話し込んでいるうち、峯林尼は週刊誌の古い切り抜きを取りだしてきた。

 「女性自身」76年12月9日号。「シリーズ人間」という7ページの特集に、当時42歳だった峯林尼が登場している。前文に「24歳で得度、夜の蝶(ちょう)から未婚の母へ」とあり、見出しにも「放せ、この色尼め!」とか「2人の私生児を連れ寺へ」といった言葉が並ぶ。

 この寺の娘に生まれ、父が早く亡くなったため、祖母に続いて住職を継ぐ定めにあった。だが、一方で「ミス宮崎」に選ばれるほどの容姿と女の激しく深い情念を兼ね備えていた。荒れていた寺を再興するため、キャバレーのダンサーやホステスとして働き、その名も「式部」という和風サロンを開き、ママとして成功もした。

 この間、男に裏切られ、先の週刊誌の見出しにあるように、「色尼」とののしられ、流産を含め2人の子を失っている。「2人の私生児」は立派に成人したが、父親の名は明かさないまま、「墓場まで持ってゆく」そうだ。和泉式部の歌さながらである。

♪  ♪  ♪

 劇作家・秋元松代に「かさぶた式部考」という作品がある。妖艶(ようえん)な尼僧が信奉者と九州を巡り歩き、ときに信者の男を惑わせるという筋立てで、法華岳薬師寺が重要な舞台となっている。

 秋元が取材にここを訪れたとき、峯林尼は30代の初め。戯曲の主人公の尼も30歳で、千年の血脈を引く「和泉式部68代目」という設定だ。峯林尼がモデルであるのは疑いようがない。

 和泉式部の最期は「男の歴史」には記されておらず、よくわからない。だが、書かれざる「女の歴史」の中ではまだ死んでいないようだ。

文・穴吹史士 写真・白谷達也

〈ふたり〉

 あらざらむこのよのほかの思ひ出に今一度(ひとたび)のあふこともがな

 (私はまもなく死んでしまう。この世の思い出に、もう1回あの人に抱かれたい)

 百人一首に採られている和泉式部の歌である。男女交際の規範がずっと緩やかだった平安時代にあっても、その性的行動は行きすぎだと見られていた。

 970年代に生まれ、10代で橘(たちばな)道貞と結婚したが、男関係が絶えず、親からは勘当、夫は他の女性を連れて東北の任地に出発。

 敦道親王が、知り合って4年半後に死ぬと、藤原道長周辺の文化人サロンに勤めたのち、道長の家来・藤原保昌(やすまさ)と再婚した。

 歌人の窪田空穂(うつぼ)によれば、作品は「刹那(せつな)刹那の感動がおのずから歌の形式として流露」したもので、男はいわば歌を詠むきっかけに過ぎなかった。作品として伝えられる歌は1500首以上。多くの男は彼女を失望させるだけで、生涯愛し続けたのは橘道貞と敦道親王だけだったろうという。

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