一席、申しあげますが、怪談噺(ばなし)といいましても、ひとひねりされておりまして、お題の「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」の真景とは、すなわち神経の意。幽霊というのも神経の障り、邪心のあやなす暗黒の陽炎(かげろう)のごとき幻であるという含みがございます。
鬼怒川べりの累ケ淵へ出るため昼なお暗い竹やぶを抜ける。戻れなくなる不安がよぎる=茨城県常総市羽生町で |
法蔵寺にある累の伝説の絵図には、累殺害の場面がリアルに描かれている=茨城県常総市羽生町で |
夕焼けに沈む鬼怒川・累ケ淵付近=茨城県常総市羽生町で |
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所は下総(しもうさ)国羽生(はにゅう)村、いまの茨城県常総市(旧水海道(みつかいどう)市)羽生町にあたる、鬼怒(きぬ)川の下流にある寒村で、折しも礫(つぶて)が地にたたきつけるような豪雨のさなか、にわかに狂乱して、連れの娘ののど笛を鎌でかき切った男がふと我に返り、こときれた女の亡きがらを打ち捨て、ぶざまに逃げ惑っておりました。
男の名は深見新吉(しんきち)、娘はお久(ひさ)と申しまして、江戸の根津七軒町から手に手をとって出奔した駆け落ちの身。夫婦の契りを交わしたお久を亡きものにしたのには深いわけがございます。
江戸で新吉は、豊志賀(とよしが)という浄瑠璃の富本節の女師匠と一つ寝をして暮らす情夫でございました。
男女の仲とはいえ豊志賀は39歳、新吉は21歳。身持ちが固い師匠という評判を裏切られ、幻滅した弟子たちがみるみる減っても、豊志賀は我が子のように若い新吉を溺愛(できあい)しておりました。
ところがその年増の深情けがいつしか仇(あだ)になり、新吉が、通いの弟子で18歳の生娘のお久に心変わりしそうだと嫉妬(しっと)にもだえ苦しむうち、豊志賀の顔に腫れ物ができ、ふた目と見られぬ形相に変わり果てたまま、書き置きを残して息を引き取ってしまいました。
書き置きは「この後、女房を持っても7人までは取り殺す」という呪いの遺言。怨念(おんねん)に震える文字の残像が心の淵(ふち)のよどみとなりました新吉は、お久の親類のいる羽生村へたどり着いたとたん、お久の顔が醜怪な豊志賀のそれへと変じて闇夜に浮かびあがったのにおののいて、拾った鎌でめった切りにしたという顛末(てんまつ)でございます。
さて、お久殺しという陰惨な事件が起こりましたのが、「累ケ淵」と呼ばれる鬼怒川の川べりで、そこはいまなお、土手から水際まで竹やぶが生い茂って人を寄せつけようといたしません。強引に分け入れば、異界へたぐり寄せられるかのような胸騒ぎに襲われ、肌もあわ立ちます。
「噺家の神様」と作者の三遊亭円朝をあがめて、因果応報の理(ことわり)を説く円朝の怪談噺をたゆまず高座にかけている桂歌丸師匠(70)は「まず見習うべきは、舞台となる土地をことごとく訪ね歩いて、丹念に取材を尽くした創作の姿勢」と語っておられます。
円朝は羽生村にも赴いて地の人々に話を聞き、土地柄をつぶさに観察したようですが、この探訪には確たる意図がございました。
累ケ淵の由来となり、江戸の巷(ちまた)に広く流布した「累(かさね)の伝説」の真相を知ろうとしたのですが、すさまじき女の怨霊(おんりょう)の出現を発端とするこの伝説、悪霊払いの怪異な事件へと相成ります。
親子3代におよぶ怨念
人の脂をさんざんに吸って鈍く黒光りしている大数珠はなぜか、無傷なものが見あたらないほど、木の数珠玉がことごとく刃物で削られていた。
不ぞろいな凹凸(おうとつ)がいびつに連続している長さ約1.2メートルの円環は、ウロコがいたるところはがれかけた老残の蛇のようでもあり、暗がりにあれば、ぬらぬらと、のたくっていそうだった。
「昭和30年代まで、檀家(だんか)で突然、高熱を発してもがき苦しむような重病人が出て、原因に思いあたらないまま治らないようだと、この数珠を借りに来たそうです。数珠玉を削り取り、煎(せん)じて病人に飲ませていたのです」
霊験あらたかな数珠の来歴を語る豊島克己さん(63)は、茨城県常総市羽生町にある浄土宗の古刹(こさつ)、法蔵寺(ほうぞうじ)の住職である。この寺こそが、「累(かさね)の伝説」を語り継ぐよりどころとなる、いわば聖域となっているのだ。
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三遊亭円朝の「真景累ケ淵」にも、羽生村で懺悔(ざんげ)の心境に傾いた新吉が法蔵寺を参拝すると、住職に「お前は死霊にたたられておる」とあしき因縁を見破られる場面があったりする。
寺の境内の一隅に「累」の一族を葬ったとされる墓所がある。墓碑があるのは累、菊という2人の女と助(すけ)という男児。この3人が、後世に伝説となる悲劇に登場する犠牲者たちである。
江戸時代初期の1672(寛文12)年の春、羽生村の農家の新妻で数え14歳の菊が突如、奇怪な狂乱に陥った。口から泡を噴き、泣き叫びながら悶絶(もんぜつ)してしまったのである。
いまにも息絶えてしまうかと思われたが、やおら実父の与右衛門を憤怒のまなざしでにらみつけると、「私は菊ではない。26年前、畑仕事の帰りに、あんたに鬼怒川へ沈められて殺された女房の累だよ。今まで、この恨み晴らさんと、あんたの後添えを6人までも取り殺してきたが、やっと菊の体に入りこめたから、あんたを同じように鬼怒川で責め殺してやる」と悪罵(あくば)を投げつけたというのだ。
菊に憑依(ひょうい)した怨霊(おんりょう)の告発は真実で、与右衛門は涙ながらに悔い改め、剃髪(ていはつ)出家して許しを請うた。だが、怨霊は鎮まらず、断続して立ち現れては菊を責めさいなんだのである。その苛烈(かれつ)さは次第に地獄絵図のような様相を帯びるようになり、空中を逆さまに浮揚したままもみしだくように体をねじ曲げられ、五体は灼熱(しゃくねつ)して焼けただれ、眼球まで飛び出したという。
じつはこのとき、怨霊の正体は累ではなく、助と入れ替わっていた。
助は、さかのぼること約60年前、累の母親が後妻で嫁いできたときの6歳の連れ子だ。あまりに醜いのを累の父親に忌み嫌われたため、やはり鬼怒川に沈められて殺されたというのだ。親子3代にわたって、一族は死霊の怨念にまとわりつかれていたのだった。
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この羽生村の憑霊事件のあらましは18年後の1690(元禄3)年、江戸で「死霊解脱物語聞書」という作者不詳の書物にまとめられて出版された。「聞書」とあるように実地に取材したドキュメンタリーである。日本近世文学を研究する東京都立大名誉教授の高田衛さん(77)によると、「聞書」は幕末まで版を重ねるロングセラーとなり、事件を広く世に知らしめた。
「累は類(たぐい)ない醜婦(しゅうふ)で、心までもがねじけている悪女だったと書かれていて、入り婿の与右衛門をないがしろにしていたようです。実際、この妻殺しは村人に目撃されていたのに咎(とが)めはまったくなく、村から異物を取り除く装置が作動したかのように隠蔽(いんぺい)されていたのです。そういった江戸時代の暗黒を象徴する事件でもありました」
菊の除霊を頼まれたのが、晩年に浄土宗の大本山、増上寺(ぞうじょうじ)の住職、大僧正となる、東京・目黒の祐天寺(ゆうてんじ)ゆかりの名僧、祐天上人だった。
当時、近くの弘経寺(ぐきょうじ)で修行する学僧だった祐天上人は、ひたすら唱える念仏の法力によって怨霊を払って解脱させ、菊を救ったとされるが、そのとき携えていたといわれるのが、冒頭の法蔵寺にある大数珠なのである。
累の伝説は、貧富男女の差別なく衆生を奇跡で救済する聖者像を誕生させた、祐天上人の伝説でもあった。
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法蔵寺には、累の一族の戒名、享年を記した位牌(いはい)もある。死霊に憑(つ)かれ、霊媒となって怨念を吐き出した菊は長寿に恵まれ、72歳で没している。事件後、菊は2児をもうけ、家は栄えたとされ、村はなにごともなかったかのように平穏を取り戻したはずだ。
しかし、住職の豊島さんは、300年を超える時を経たいまでも、凶事があると、口外はしないまでも、累のたたりを気に病み、眉をひそめる人が少なからずいる、と言う。毎年、累の命日の回向(えこう)は欠かせないのである。
文・保科龍朗 写真・飯塚悟