オルガンの音色と賛美歌が響く日曜の朝。北海道旭川市の旭川六条教会で開かれた礼拝に、いつものように信徒約70人が集まった。
外国産の樹木を集めた見本林は「氷点」に登場して一躍有名になった。今も散歩する人が絶えない=北海道旭川市で |
旭川市街地の上に青空が広がった。三浦夫妻が暮らし、数々の作品を生んだ街だ |
「塩狩峠」の舞台に近いJR塩狩駅を特急列車が通過する=北海道和寒町で |
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70年代ごろのふたり |
銀色の髪を整えた濃緑スーツ姿の三浦光世(みつよ)さん(83)は、祭壇前の3列目で聖書を開き、歌をささげていた。妻の作家三浦綾子が逝ってから8年近い。共に歩んだ40年を振り返り、今は全国を年40回ほど講演して回る。妻の生前もそうだったように、体調の許す限り、礼拝への出席は欠かさない。
綾子が多臓器不全のため77歳で亡くなったのは1999年10月。24歳で肺結核に倒れて以来、脊椎(せきつい)カリエス、直腸がん、パーキンソン病など病魔と闘い続けた半生でもあった。
「夢を見るんです。急な坂道でためらう私の手を綾子が引っ張り上げてくれたり、なぜか私を助手席に座らせて車を運転していたり」。光世さんの枕元にはきまって、活力みなぎる妻の姿が現れる。長く壮絶な闘病生活に寄り添う日々には決して味わえなかった「デート」を楽しんでいるという。
『氷点』『塩狩峠』……。三浦文学はキリスト教信仰をベースに「人はいかに生きるか」を問い続けた。それを支えた深い夫婦愛は、綾子の自伝『道ありき』3部作や随筆で知られる。
ふたりの出会いは「勘違い」と「偶然」のたまものだった。
カリエスのためギプスベッドに伏せていた綾子を光世さんが初めて見舞ったのは55(昭和30)年夏。全国の結核療養者らが短歌や手紙を寄せるキリスト教同人誌の発行人が、同じ旭川に住むふたりを引き合わせた。
「女性同士、見舞って励まし合ってはいかがですか」。光世さんの名前を同性と早合点したのだ。困惑がちに現れた光世さんに綾子は仰天する。同人誌への寄稿の内容が文通する死刑囚のことばかりだったので、綾子は光世さんを「塀の中の人」と思っていた。
さらに驚いたのは、彼が前年に病死した「幼なじみの婚約者」の生き写しだったことだ。顔立ち、穏やかな話しぶり、そして敬虔(けいけん)なキリスト信仰。「私の命をあげますから堀田さん(綾子の旧姓)を治してください」。そう祈って献身的に見舞いを続ける光世さん。病のさなかに恋人を亡くしてふさぎ込んでいた綾子は、迷いながらも強くひかれ始める。59年5月、ふたりは旭川六条教会で結婚式を挙げた。
それから40年後、綾子が亡くなった日、旭川支局員の私は取材のため入院先に詰めていた。重篤になって約40日。「死ぬという大切な仕事がある」との言葉通り、危険な状態を何度も乗り越え、「生」の尊さを示した妻と、付きっきりで励ました夫。その姿に感動すら覚えた。
やがて任地を離れた私は一つの問いを胸に、光世さんを再訪する機会を待ち望んでいた。「綾子さんの『恋人』の写真、今も持っているのですか」
三浦文学を生んだ二つの愛
小説『氷点』の舞台になった外国樹種見本林。旭川市の美瑛(びえい)川沿いに広がるその林の入り口に立つ三浦綾子記念文学館は、さながら教会のような清楚(せいそ)なたたずまいだ。三浦光世さんは02年から館長を務め、妻が残した文学の精神を世に伝えている。
「この人が前川正さんです」。光世さんが胸ポケットから、白黒写真を見せてくれた。優しい微笑をたたえ、垂れ目気味の顔だちは、若い頃の光世さんの雰囲気にたしかに似ている。
前川は綾子の二つ年上で、小学生当時、綾子の家の隣に住んでいた。20代後半で再会したふたりは将来を約束し合う仲になったが、前川は54年に肺結核の悪化で帰らぬ人となった。
入れ替わるように綾子の元に現れた光世さんは結婚以来、妻が愛したこの男性の写真を、肌身離さず持ち歩いている。綾子が世を去った今も、その習慣は変わっていなかった。
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四隅がすっかり丸くなった写真と、目の前の光世さんの顔を、私は思わず何度も見比べた。「妻の過去」を毎日胸にしのばせる、その心の内は。
「自分の大きな規範としていつも覚えているためです。綾子の命の恩人ですから感謝しないと」。光世さんはそう言って、そっと写真を懐に戻した。
『道ありき』の青春編は、敬虔(けいけん)なクリスチャンだった前川と綾子のプラトニックな愛の記録でもある。
医学生だった前川は戦後、同じ結核患者の綾子を訪問。その頃の綾子は、病室での飲酒や喫煙、他の男性との二重婚約と、捨て鉢な暮らしの極みにあった。根気よく立ち直らせようとする前川だったが、綾子は毒づくばかりか、海への入水を図った。
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深く嘆いた前川は、旭川市街を一望できる丘に綾子を誘い出す。新緑がまぶしい初夏。懸命に「生」を諭す前川を、綾子は皮肉な目で眺めながら、たばこに火を付ける。
彼は傍にあった小石を拾いあげると、突然自分の足をゴツンゴツンとつづけざまに打った。「信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされた。だから、不甲斐(ふがい)ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」――
足を血だらけにして泣く前川の姿に打たれ、やがて綾子は改心し、信仰の道へ傾倒していく。三浦ファンにはおなじみの場面だ。
その丘はいまも存在する。市内の障害者施設で働く中島啓幸さん(37)が案内してくれた。市街地から5キロほど離れた雑木林。緩い坂道を上ると、木立の間に広場があった。
「当時は木もまばらで、視界いっぱいに大雪山系が眺められたはず。ここは三浦文学にとって特別な場所です」。『塩狩峠』に感銘を受けた中島さんは95年、綾子が見守る中、六条教会で洗礼を受けた。「私の息子」と抱擁してくれた綾子の遺志をくみ、前川の足跡をたどる取材を続けてきた。
前川の死後50年の04年には、発起人として追悼式を開催。昨年の命日も、この丘に光世さんや前川の級友らが集まって「石打ち」の一節を朗読した。「前川さんなくして三浦文学は生まれなかった。そのひたむきで誠実な愛をもっと知ってほしい」
前川は死の直前、綾子からの手紙や自分の日記を添えて、綾子に「遺言」を残す。「綾ちゃんは真の意味で私の最初の人であり、最後の人」、そして「決して私は綾ちゃんの最後の人であることを願わなかった」と。恋人の人生を縛ることのないよう、自分という存在から解放したのだった。
綾子の結婚式には前川の母秀子も参列した。義母になるはずだった彼女は涙を流して祝福したという。光世さんは綾子に言った。「前川さんを決して忘れてはいけない」。ふたりは前川の命日に実家へ欠かさず献花に通った。
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いまは光世さん一人が暮らす自宅2階。大きな座卓がある書斎はかつて夫婦の仕事場だった。握力が弱くなった綾子が口頭で述べる文を、光世さんが絶妙の呼吸で合いの手を入れて書き写す口述筆記。三浦文学のほとんどはふたりの共同作業で生まれた。
『道ありき』も例外ではない。妻の青春時代の愛情物語は、のちの夫の手でつづられた。心が波立たなかったはずはないと思うのだが……。
「嫉妬(しっと)ですか? あまりに相手の人格が高すぎてとても。私たちが結婚できたのは彼のおかげですしね」。光世さんは静かに笑うだけだった。
部屋の隅の三角棚に、白い布に包まれた桐(きり)の小箱が二つあった。一つは綾子の母親の遺骨。もう一つ、黄色い十字架を施した箱には、前川が結核の手術で切除した肋骨(ろっこつ)と遺髪、そして綾子の遺髪が仲良く納まっていた。
文・奈良有祐 写真・江口和裕