石畳の急な坂道を、夏休みの小中学生や観光客たちが、息を切らせながら上っていく。
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馬籠宿付近から望む中山道沿いの夕景。藤村の墓がある永昌寺も程近い=岐阜県中津川市で |
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馬籠の藤村記念館には祖父母の隠居所が残る |
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明治中期に建てられた明治学院大学の宣教師館(インブリー館)は藤村在学時の面影をとどめる=東京都港区で |
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輔子と藤村 |
作家・島崎藤村が生まれた木曽・馬籠(まごめ)(岐阜県中津川市)。観光客たちのお目当ては生家跡に立つ「藤村記念館」だ。その展示室の一角に佐藤輔子(すけこ)の日記や写真が保存されている。日記は手作り。半分に折った半紙を大和とじにし、えんじ色の表紙がつけられている。
「この人だれ?」「えっ、知らないの。藤村が好きだった人だよ」。子どもたちは興味津々だ。
今春まで副館長を務めた牧野式子(のりこ)さん(57)は「藤村の片思いだったと思うけど、輔子は藤村文学を語るうえで欠かせない存在です」と説明する。
庭先にある藤村の詩碑「初恋」は輔子への思いを色濃く残している。
「わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき たのしき恋の盃(さかずき)を 君が情(なさけ)に酌みしかな」
輔子は藤村の教え子だ。許されぬ恋に身も心も焦がした藤村は、わずか4カ月で教師を辞め、1893(明治26)年2月、関西へ漂泊の旅に出る。
ふたりが出会ったのは前年9月。藤村が英文科の教師をした東京・麹町の明治女学校だった。藤村20歳。輔子は21歳で婚約者がいた。
自伝的小説『桜の実の熟する時』や『春』には岸本捨吉(藤村)、安井勝子(輔子)として登場する。漂泊の旅に出る前の耐え難い心境を藤村は『桜の実の熟する時』にこう書いている。
「しかし捨吉は教師だ。そして勝子は生徒だ。それを思うと苦しかった。(中略)どうかして自分の熱い切ない情(こころ)を勝子に伝えたいとは思っても、それを伝えようと思えば思うほど、余計に自分を抑えてしまった」
大津、京都、高知……。半年余りに及ぶ漂泊の旅でも、輔子への思いは消えることはなかった。北村透谷(とうこく)の紹介で英語の家庭教師をするために訪ねた岩手・一関村(現一関市)は皮肉にも輔子が少女時代を過ごした土地だった。藤村はほどなくして、髪をそり僧侶姿で再び放浪の旅へ出る。学校に復帰したのはそれから5カ月後だった。
『藤村永遠の恋人 佐藤輔子』の著者で一関在住の及川和男さん(73)は「藤村は、『恋愛至上主義』を唱える透谷に心酔していた。輔子を愛することがすべてだったのではないか」と話す。
当時、藤村の授業を受けた随筆家で新宿中村屋の創始者、相馬黒光は自伝『黙移(もくい)』に、こう書いている。
「島崎先生の講義はちっとも面白くなかった。ああもう先生は燃え殻なのだもの、仕方がないと思った」
またも明治女学校を辞め、旅を考えた。仙台の東北学院に職を見つけた藤村は雨の激しく降る日、上野から列車に乗った。『春』の最終章はこう締めくくられている。「あゝ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」
2度目の旅で恋が終わる
島崎藤村が佐藤輔子に初めて手紙を書いたのは、関西への漂泊の旅から帰った直後だった。輔子が少女時代を過ごした岩手・一関に行くことになったためだ。
『春』には一関が八戸として書かれている。「八戸に行く前に一度会って話がしたい」。だが、勝子(輔子)の返事は「この場合、かえってお目にかからない方がいいかと思う」。あきらめきれない岸本(藤村)は友人の計らいで勝子と会うが、思うような話はできなかった。かつての師弟関係がじゃましていた。かえって苦しくなり、八戸行きを急いだ。
1893(明治26)年9月中旬のことだった。訪れた「熊文」は東北有数の造り酒屋。15代目の熊谷文之助はキリスト教の布教に熱心な北村透谷と知り合いで、長男・太三郎の英語の家庭教師を頼まれた透谷が藤村を紹介した。
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それから1世紀以上。一関を訪ねてみると、「熊文」はすでになく、白壁の大きな酒蔵だけが当時をしのばせていた。酒蔵を利用した酒の博物館、ビール醸造所、レストラン……。地元の酒造会社に買い取られ、観光客らでにぎわっていた。その一角には一関ゆかりの文学者の資料を集めた「いちのせき文学の蔵」があり、藤村の原稿なども展示されている。
輔子がこの地に住んだのは10歳だった1881年から約4年間。父昌蔵が東西磐井郡の郡長に就任したのに伴い盛岡からやってきた。一家が住んでいた官舎跡には、いまも古井戸が残る。
太三郎は輔子の4歳下で、輔子と同じ小学校に通っていた時期がある。そんな太三郎に英語を教えた藤村には感慨深い一関だったに違いないが、半月ほどで熊谷家に別れを告げた。
神奈川・鎌倉の円覚寺の境内にある禅寺に身を寄せた藤村は、悶々(もんもん)とした日々を送った。『春』には、切ない思いがつづられている。
「四、五日の間は、名のつけようの無い深い苦痛(くるしみ)に圧(お)されるような日が続いて、そういう時には急に身体(からだ)が震えたり、胸騒ぎがしたり、思わず知らず涙が流れたりするが、それを通り越すと、今度は妙に寂しい、居ても起(た)ってもいられないような日が来る(中略)勝子がなければ、現世(このよ)に生きている甲斐(かい)が無いように思われてきた」
耐えられなくなった藤村は懐中時計を売った金を懐にさまよう。品川の遊郭で童貞を捨て、頭をそり、鎌倉の禅寺でもらった僧衣姿で再び漂泊の旅に出た。あてもなく歩き続けた末に海岸で入水しようとして思いとどまり、国府津(神奈川県小田原市)の透谷の家にたどり着いた。明治女学校を辞めて約11カ月後だった。
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藤村は1894年4月、明治女学校に教師として戻った。生活のためだった。ところが、今度は透谷が首をつって自殺する。続いて長兄の秀雄が水道鉄管にからむ不正事件で捕まり、家の重荷は藤村にふりかかってきた。
一方、輔子は明治女学校の高等科を卒業。夏ごろまで学校に残り、普通科の指導にあたっている。藤村と時たま顔を合わせることがあったはずだが、輔子の気持ちはすでに決していたからこそ、学校にとどまれたに違いない。
及川和男さんは、藤村の恋は2度目の漂泊の旅から帰った時点で終わったとみている。『春』では再度、輔子との再会が描かれているが、「恋の終わりを悟ったからこそのフィクションではないか」と推理する。その一つが、勝子(輔子)が別れ際に、汚れてくしゃくしゃになったハンカチを岸本(藤村)に渡す場面。士族出の女性にはプライドが許さない行動で、明らかに虚構だという。
「自分の恋は片思いで終わり、もう結ばれることはない」。そんな思いと輔子への執着心が煮詰まり、こんな描写を生んだのではないかとみている。
輔子は95年5月末、札幌農学校講師の鹿討豊太郎と結婚したが、つわりのため衰弱。3カ月足らずで病死した。
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輔子の日記は輔子のめいが藤村記念館に寄贈したとされているが、寄贈者の名や時期は不明だ。藤村が明治女学校の英文科の教師になった92年9月1日から教師を辞める直前の12月26日まで、利発さを感じさせる勢いのある文字でつづられている。
藤村に関する記述は3カ所あるが、いずれも先生として慕う内容で、それ以上の感情は読み取れない。3カ所目の12月21日はこんな具合だ。
「早くより仕度(したく)して来校す。島さき先生の科ありといふ故なり。益する事多かりき。我(わ)れ此(こ)の先生の科の時には、多く考ふる様に感じぬ」
こうしたひたむきさに、藤村はひかれたのかもしれない。
文・佐藤昭仁、写真・早坂元興