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愛の旅人

「グロウ・オールド・ウィズ・ミー」

ジョン・レノンとオノ・ヨーコ

2007年09月29日

 「イマジン」もいい、「ウーマン」も「マザー」もすごい。でも、この歌「グロウ・オールド・ウィズ・ミー」が好きだ。ジョン・レノンは夫と妻のとこしえの愛を優しく歌う。言葉はシンプルで、素直にうなずける。

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ダコタハウスから夫ジョン・レノンが好きだったセントラルパークを見つめるオノ・ヨーコさん=米国ニューヨークで

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レノンが遊んだセントラルパークの菩提樹=ニューヨークで

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71年の誕生日にレノンから贈られた「白いピアノ」の前で。「私の宝物」というヨーコさん=米国・ニューヨークで

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 「僕と一緒に歳(とし)をかさねよう

  最良の時はこれからなんだ

  僕たちの時代が来れば

  ふたりはひとつになるだろう

  ふたりの愛に祝福あれ

  ふたりの愛に祝福あれ」

 正式の録音はない。凶弾に倒れた1980年12月8日の1カ月前、ニューヨークの自宅アパート「ダコタハウス」の寝室で、妻オノ・ヨーコさんと録(と)った一本のテープが残るだけだ。84年にアルバム「ミルク・アンド・ハニー」に収録された。

 「いまも、涙が出るの……」

 広いキッチンで、ヨーコさんはそう言った。一家3人はここで語り合い、歌い、一日のほとんどを過ごした。「私に向かって、こう歌って、いなくなった。彼の最後の歌……。イマジンのように、重い歌です」

 秋めいた日差しの昼、私はアーチ型のゲートをくぐり、厳しい警備のダコタに入った。あの夜、レノンが「撃たれた、撃たれた」とうめきながら倒れ込んだ管理人室を抜け7階へ上がる。ドアの向こうにヨーコさんが立っていた。大好きな黒色のシャツとパンツ、眼鏡を鼻にちょこんとかけている。

 皮肉にも、レノンにとって、40歳になった「80年」は転機の年だった。音楽から離れ、息子ショーンの子育てに専念した5年間も終わった。ある日、近所の家で映画「イエローサブマリン」を見てきたショーンが聞いた。「パパが歌ってたよ。パパはビートルズだったの?」

 「パパにもできることがあるんだって、胸を張って言いたくなったんだ」

 インスピレーションが次々に浮かぶ。この歌もその一曲だ。ヨーコさんも曲作りの意欲がわき、ふたりはスタジオに通い詰める。その録音から戻ったダコタのゲートで、狂信的なファンの5発の銃弾を受けた。

 「男の人って、優しさを隠そうとするでしょう、強がって……。ジョンも、音楽や人生すべてに突っ張ってた」。彼女は続ける。「でも、一緒になって、いろいろあって、10年たった。ふたりの間に、何とも言えない味が出てきたの……。ジョンは自分に素直になった、ショーンも成長した。3人の、すてきな時間でした。この歌の優しさはそうして、できたんです」

 歌に「一目ぼれ」したレノンは「大きな音楽にして、次のアルバムに入れよう」と言った。「サルベーション・アーミー(救世軍)の楽隊みたいに、ラッパやいろんな楽器を使ってさ」

 そして、いつものように「夢」を語った。「結婚式で、たくさんの人に歌ってもらいたいんだ」

ひとつの木の ふたつの枝

 インタビューを続けながら、さっき、オノ・ヨーコさんが言った「涙」のことが気になっていた。衝撃的な死から27年。事実をいま、どう受け止めているのだろう。

 「結婚して最初の『ベッドイン』から、私たちが訴え続けたのは愛と平和です。ジョンの強い意志であり、それが私たちの人生でした」

 暴力ですさむ時代に、その思いは「強くなるだけ」と言う。74歳のいまも芸術家であり続ける彼女の作品の根っこはいつだって、「平和」だ。

 「暴力により殺された者の未亡人として」と、命日に向けた昨年12月のメッセージにこう記した。「引き金を引いた人物を赦(ゆる)す用意があるかどうか、まだ、私にはわかりません」

 いまだって、無念なのだろう。それでも、彼女は繰り返した。「いま必要なのは、人たちが暴力で受けた傷を癒やすことなのです」

♪  ♪  ♪

 1966年11月、ロンドンで開かれたヨーコさんの個展会場で、ふたりは出会った。作品を前に話が弾んだ。ヨーコさんは彼の冗談めかした「言葉の遊び」に、レノンは皮肉とユーモアの彼女の作品に、好感を持った。半年後、レノンは自宅の昼食に招いた。

 「ちょっと待って」。ヨーコさんは私に「見せたいものがある」と言ってレノンと出会った個展のカタログを開いた。繰り返し見たのだろう、40年前の黄ばんだ冊子はすり減っている。

 リストに「光の家」という作品があった。「ジョンはこれを本気にして、僕の庭に作ってほしいって言い出したの……。コンセプチュアル(概念的)な作品だから作れない、というと、とっても残念そうでした」。すねたような子どもっぽい顔をした。

♪  ♪  ♪

 レノンの「夢」が実現する。

 彼の67回目の誕生日となる10月9日、アイスランド・レイキャビク沖の小島に完成した「光の塔」から、一本の光が空に放たれる。「イマジン・ピース・タワー」と名付けられた。光を発射する「ウイッシング・ウェル(願いの井戸)」には、「ウイッシュ・ツリー(願掛けの木)」というヨーコさんの作品に各国の90万人がつるした夢や願いの短冊が保管される。

 「ジョンの庭ができました」と彼女は言う。塔は半永久的に光り続ける。

 ダコタハウスで私が彼女に会うまで半年の準備を要した。年がいもなく、インタビューに緊張していたかもしれない。ヨーコさんになぜか、握手を求めた。自然に手が出てしまった。

 「あら、日本人、なのに……」。彼女はそう言って、手を差し出した。

 そうだった。軽くお辞儀でもすればよかった……。自分がおかしかった。

 話はいつか、没後21年の01年から日本で続く年1回の慈善コンサートになった。出演者はのべ108人、収益は開発途上国の学校建設に充てられ、18カ国に65校の学校を造った。

 「私、ずっと離れてたし、日本は小さい頃とずいぶん変わってしまった。ロビンソン・クルーソーか浦島太郎の感じで、戻っても異国のようだった」

 最近、なんだか、日本人という気持ちが強くなった。

 「きっと、ご先祖様が、ヨーコ、お前は帰って来なきゃいけない、って言ってる気がするの。ここがお前のルーツだよって……」

 レノンは66年からの自分のコンサートはすべて、チャリティーを貫いた。ヨーコさんもその遺志を継ぐ。「重要なのは、それを継続すること」と信ずる。「日本は何もかもが一過性なの。こっちにいると日本のこと、よく書かれてないし、かっかしてた……。日本だって、こうしてずっと続けてるぞ、って言ってあげたい」

♪  ♪  ♪

 自宅そばのセントラルパークに、太い幹を地にはわせる大きな菩提樹(ぼだいじゅ)がある。周囲の木々が幹を素直に伸ばしているのに、この木だけは勝手気ままに枝を広げ、こんもりした木陰をつくっている。

 レノンはこの木が好きだった。朝、公園に来るといつも、幹に座り長い時間を過ごした。秘密の場所だった。

 「僕と一緒に年を重ねよう

  ひとつの木から伸びるふたつの枝のように

  沈む夕日に向き合おう

  一日が終わるときには」

 聞いたわけでもないのに、取材の終わりに、ヨーコさんは「グロウ・オールド・ウィズ・ミー」の一節にある「木」のことを言った。「彼が、私とのことを、一本の木の二つの枝だって思ってた。それがとってもうれしい」

 「ジョンの木」に私も座った。

 レノンが愛したニューヨークの夕日が、ダコタハウスの奇抜な尖塔(せんとう)を照らした。

文・斎藤鑑三、写真・飯塚悟

〈ふたり〉

 ジョン・レノンは英国リバプール生まれ。船乗りの父は不在がちで母は別の男と同居、母の姉に育てられた。中学生のころプレスリーに心酔、62年にポール・マッカートニーら4人の「ザ・ビートルズ」でレコードデビュー。66年に日本で公演した。69年に8歳上のオノ・ヨーコさんと結婚したが、4人の関係もこじれ始め、マスコミは彼女を「ビートルズを解散させた女」と皮肉った。

 銀行家の裕福な家庭で育ったヨーコさんは19歳で家族とニューヨークへ移った。サラ・ローレンス大を中退、前衛芸術集団に参加した。レノンの音楽に強い影響を与え、「イマジン」は彼女の作品がヒントとなった。

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