お宮の裏手から坂道がひと筋、浅野川の岸辺に下っている。その久保市(くぼいち)乙剣宮(おとつるぎぐう)の鳥居前で生まれ育ち、境内を遊び場にしていた泉鏡花(きょうか)は「坂とは言わず穴のような崕(がけ)」「暗闇(くらがり)坂」と表現している。たった15段の石段に過ぎないが、確かに急。途中で曲がっているので、先が見通せない。鏡花が子ども心に穴と見立てた不気味な墜落感覚が、いま歩いてもよくわかる。
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この先に芸者を取り次ぐ検番。細い格子窓の奥から宴会のさんざめきが聞こえてくる=金沢市主計町の暗闇坂で |
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天生峠に登る途中、落差20メートルの中滝が見える。人の頭ほどの落石がカメラの前を飛んでいった=岐阜県白川村で |
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峠から少し登ると天生湿原が広がる=岐阜県飛騨市で |
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泉鏡花夫妻=日本近代文学館提供 |
坂を下りきると主計(かずえ)町(まち)茶屋街。金沢で高名な明治以来の遊郭である。寄せ鍋屋「太郎」も元はお茶屋で、太郎という名妓(めいぎ)が終戦直後に開いた。その芸者太郎の孫が、おかみの松村多美子さん(72)だ。「わたしらのころは、あの坂はアベック道路ちゅうて、子どもは上っちゃだちゃかんぞ……」と近づくのを禁じられていたそうだ。
高台の商家のだんな衆が芸者遊びに繰り込む専用の通路で、源氏が平家を奇襲した戦跡になぞらえ、「ひよどり越え」とも呼ばれていた。坂下で討ち死にした男も多かったに違いない。
「夜鏡花来(きた)る。相率(ひきい)て其(その)家に到(いた)り、明日家を去るといえる桃太郎に会い、小使(こづかい)十円を遣(つかわ)す」
鏡花の師、尾崎紅葉は1903(明治36)年4月の日記にこう記した。
桃太郎というのは東京・神楽坂の芸者である。紅葉一門の新年会で鏡花が見そめ、師に内緒で一緒に住み始めた。それがばれた。10代から育てた一番弟子に、名家から妻を迎えさせようと考えていたらしい紅葉は激怒する。
「彼(鏡花)秘して実を吐かず、怒り帰る」「折檻(せっかん)す」といった記述が残る。そしてついに、桃太郎を家から放り出すことに成功、女には当座の生活費10円を与えたというのが、先の日記の趣旨である。
「折檻」がどんなものだったのか、手がかりになる場面が、紅葉の死後に鏡花が書いた小説『婦系図(おんなけいず)』にある。
「何故(なぜ)芸者を引摺(ひきずり)込んで、師匠に対して申訳(もうしわけ)のないような不埒(ふらち)を働く」
「愛想の尽きた蛆虫(うじむし)め、往生際の悪い丁稚(でっち)だ。そんな、しみったれた奴(やつ)は泥賊(どろぼう)だって風上にも置きやしない」
主人公の早瀬主税(ちから)と芸者上がりの内妻・お蔦(つた)を別れさせようと、恩師・真砂町(まさごちょう)の先生が、女かおれか、どちらかを選べと迫る。主税は鏡花、お蔦は桃太郎、先生が紅葉という図式だ。
『婦系図』は劇になり、新派で繰り返し上演されている。お蔦・波乃久里子、主税・風間杜夫の8月公演を東京・三越劇場で見た。どうせお涙ちょうだいだろうと、なめてかかっていたが、女を捨てる場で不覚にも落涙。
女関係に奔放で、自らも神楽坂の芸者を愛人にしていた紅葉が、鏡花と桃太郎との仲を血相変えてまで裂こうとした真意は、よくわからない。遊びと実生活、恋愛と結婚の区別をつけられず、打算を捨てて芸者ふぜいに打ち込む弟子の姿に、「暗闇坂」へ落ち込んでゆく危うさを見たのかもしれない。
理想の女は魔の峠で出会う
『高野聖』は、峠道を男が登ってゆく物語である。途中、蛇が長大に横たわって通せんぼする草むらがあり、山ヒルがどっと降って人血をすする森がある。その奥には「嬢様」と呼ばれる不思議な女がいて、旅の男を性的魅力で誘惑したあげく、馬や猿やヒキガエルの姿に変えてしまう。
この道もまた「暗闇坂」に似て、いったん踏み込むと、常の世界に戻れない回廊なのだ。その名を「天生(あもう)峠」といい、小説では飛騨・信濃の国境と設定されている。
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同名の峠は岐阜県の白川村と飛騨市の間にある。標高1289メートル。雨水だけを水源とする高層湿原があって、県立自然公園に指定されている。熊が出るので、登山客はみんな鈴をりんりんと鳴らしながら歩いていた。30分ばかり登る間に蛇が2度、目の前を横切った。アオダイショウだったか。
「アオもおる。マムシもおるしヨタヘビもおる。本当の名前は知らんが、赤みを帯びた首のあたりが、いやらしい黄色で、ヨタヘビちゅうんじゃ」と公園パトロールの松田光夫さん(71)は言う。「山ヒル? おることはおるが、小説みたいなことはねえで」。とりあえず、嬢様は出ないようである。
峠を目指した男が、ことごとく獣や虫に姿を変えられるなかで、主人公の旅の僧だけが、人間の姿で里に下りてくることができた。人柄や顔かたちを見込まれたのか、ただの気まぐれからか、嬢様に救われたのである。
「いざというときに、女が現れて助けてくれるんですよね」と泉鏡花記念館(金沢市)の学芸員、穴倉玉日(あなくら・たまき)さん(34)は話す。作品の中ばかりではなく、実生活もそうだった。記念館のこの夏の展示テーマは「亡母憧憬(しょうけい)―鏡花をとりまく女性たち」。取り上げられたのは母のすずと次の4人である。
母の妹で、鏡花が父の後妻に望んでいたらしい叔母。鏡花が10代のころ通っていたミッションスクールの米国人女性宣教師。父方の祖母の実家のまたいとこ。初恋の人といわれる近所の時計屋の年上の娘。
共通しているのは、幼くして母を失った男の子を放っておけない母性の強さと芯の強さだった。鏡花にはそんな女性に好かれる雰囲気があったようだ。彼女たちを母のように慕い、姉のように頼りにして少年時代を過ごし、作家になってからは、4人の性格や姿が反映した女性像を繰り返し描いた。
『高野聖』の嬢様は、昭和女子大教授の吉田昌志さん(52)によると、「妖艶(ようえん)で母性的という二面性を持っている。女性の理想を追求してゆくと最後に現れる姿。鏡花が造形しえた究極の女性像」だそうだ。
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小説が発表されたのは、鏡花が26歳の1900(明治33)年。この作品で若手作家の第一人者という世評を確立した。桃太郎と知り合ったのは、その前年のことだ。芸者は男を暗がりへ引きずりこむどころか、より一層の高みに引きあげたように見える。
桃太郎は、鏡花がそれまでに出会った女性たちとは全く違うタイプの女だったと、吉田さんは言う。「お座敷でも隅の方にひっそり座って、くすんで目立たない芸者だったと思う」
父が早く死ぬ。母は芸者に出て、商人の囲われ者になった。その商人が破産、桃太郎は芸者屋に売られ、母は行方不明に。5歳のときだった。
自分に数倍する不幸な境遇に、鏡花は激しく同情し、けなげに生きる姿に共感した。師にどう責められようと、この女を見捨てるわけにはいかないと決めたらしい。結婚を世俗的な利益の道具にもしかねない尾崎紅葉の生き方への最初で最後の反抗であった。
紅葉の死後、ふたりはまた一緒に住み始め、『婦系図』や『歌行燈(あんどん)』など、芸者が登場する名作が生み出されて、次第に重要なジャンルをなしてゆく。桃太郎は、創作の女神ミューズの役割を果たしたことになる。
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吉田さんは昨年、鏡花の詳細な年譜を編集していて、小さな記事を見つけた。26(大正15)年1月5日の読売新聞が、「泉鏡花さんが結婚の仕直し」という見出しで妻の入籍を報じていた。
「籍が入ったので此(こ)れから本当の夫婦だなんと思っても可笑(おか)しくてしょうがありませんわ……。主人が面倒くさがりですし、ついつい今日までなったのですが……、ただ子供がないことが此頃(このごろ)寂しくなりましてね」
こう話しているのは、もちろん桃太郎。記事には「すゞ子夫人」とある。本名・伊藤すず。偶然ではあるが、鏡花の母親と同名である。このとき、神楽坂の宴席からすでに27年。その後さらに13年、仲むつまじく暮らし、鏡花の死をみとって、戦後まで生き、桃太郎68歳で没す。
文・穴吹史士、写真・白谷達也