キューバの首都ハバナから車で高速道路を東へひた走る。両側にシュロの木やサトウキビ畑が続く道路は、ほぼ完全な直線だ。熱帯の太陽が正面から照りつける。一度も止まることなく飛ばし、2時間半後には中部の町サンタクララに着いた。
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南米を向いて立つ霊廟のゲバラ像。ゲバラは南米で今、聖エルネストと呼ばれている=キューバ・サンタクララで |
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スペイン植民地時代のカバーニャ要塞。ゲバラ率いる革命軍の拠点となった=キューバ・ハバナで |
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ハバナ旧市街地の子どもたち=キューバ・ハバナで |
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階段状になった霊廟(れいびょう)の頂上に白いサンゴの台座がそびえ、その上に約7メートルある黒い銅像が立つ。右手にライフル銃を持ち、骨折した左腕を首からスカーフでつったチェ・ゲバラの姿だ。
10月8日、ここで没後40周年の記念式があった。参加した約1万人の最前列に座った黒いサングラスの女性がゲバラの妻アレイダ・マルチさん(71)だ。娘で同名の医師アレイダさん(46)に付き添われて献花したあと、さっぱりとした表情となり低めの穏やかな声で周囲の人々と談笑した。
キューバ革命の英雄ゲバラは1967年に南米の山中で射殺され、39歳の生涯を終えた。革命家としてよく知られるが、家庭での顔はほとんど知られていない。アレイダさんがメディアに顔を出すのを固く拒んできたためだ。
ところが、半世紀近い沈黙を破って5月、アレイダさんの『回想録 チェとともにした我が人生』がイタリアで出版された。それを読むと、妻から見た人間ゲバラが浮き上がる。革命家の実像を追おうと、キューバに飛んだ。
アレイダさんがゲバラと会ったのは58年、ゲリラ戦の山中だ。地下組織で革命運動をする大学生で22歳だったとき、ゲリラに軍資金を届けるよう指令を受けた。上半身にばんそうこうで5万ペソのカネを巻いて山に登り、第8軍司令官のゲバラに渡した。
彼女はゲリラ兵士になることを志願し、ゲバラは「いっしょに銃の引き金を引こう」と答えた。ゲバラが戦闘中に屋根から飛び降りて腕を骨折したさい、アレイダさんは持っていた黒い絹のスカーフを渡した。ゲバラはそれで折れた腕をつった。
ゲバラは治癒後もこのスカーフを身から離さず、彼女あての手紙などで「愛のこもったつり包帯。墓までともにする」と書いた。ゲバラの骨がキューバに送還されると、ためらうアレイダさんを尻目に娘のセリアさんがスカーフを棺(ひつぎ)に納めた。「戦士が彼のスカーフとともに休むため」だ。愛の象徴は文字通り、墓までともにある。
サンタクララの戦闘でゲバラが率いる340人の第8軍は、3000人の政府軍に勝った。これが革命の勝利を決定づけた。59年1月、首都に進軍する道でゲバラはアレイダさんに初めて愛を告白した。「サンタクララ攻略の日に、君を愛していると感じた」。そのときアレイダさんは疲れ果て、半分眠っていた。聞き違えたのかな、と思いながら夢うつつで聞いていた。
ゲバラが彼女に贈った最初のプレゼントは、「岩間の花」という名のフランスの香水だった。
熱烈に私を愛してくれ
チェ・ゲバラとアレイダ・マルチさんを結びつけた人物に、ハバナで会った。水産副大臣のエンリケ・オルトゥスキさん(77)だ。サンタクララで石油会社の地元責任者をしつつ革命運動に身を投じ、州の地下活動の代表だった。活動資金をゲバラに届けるようアレイダさんに指令したのが彼だ。
「アレイダは美人で、精神も肉体も強かった。使者として彼女に目をつけたのは、こんな可愛い子が革命の地下活動をしているとは警察も気づかないだろうと思ったからだ」と語る。
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ハバナ湾に面した丘にスペイン植民地時代のカバーニャ要塞(ようさい)がそびえる。ハバナに進軍したゲバラは、ここに陣取った。今もゲバラの執務机が残り、ゲバラの背嚢(はいのう)や愛用していたニコンのカメラが展示してある。
その近くにある2階建ての要塞司令官公邸がゲバラの家となった。玄関を入って左は執務室で、机にはゲバラが好んだ葉巻の箱が置かれている。その奥がアレイダさんの部屋、トイレをはさんで向こうがゲバラの寝室だ。
革命成功の直後、ゲバラの最初の妻イルダ・ガデアがメキシコから来た。アレイダさんの存在を知ったイルダは「男がほかの女と恋に陥ったとき、妻ができることはほかにはない」と、あっさり離婚を承諾したという。イルダはその後、キューバで画家と再婚したのち、がんで死去した。
ゲバラとアレイダさんは1959年6月に結婚した。式場はゲバラの護衛官だったアルベルト・カステジャノスさん(74)の家だ。いまや年金生活の同氏は、ゲリラ活動で銃の入手がいかに大変だったかを20分間まくし立てたあと、「結婚式でアレイダはとても満足していた。それまでの秘書から妻として公式に認められたからだ」と思い起こした。
新婚生活は革命建設と重なった。ゲバラは国立銀行総裁、工業相を歴任する。朝はコーヒーと牛乳プディングだけで出勤し、帰宅は普通、午前1時で、夕食はときに午前3時になり、熱いココアとトーストを食べた。日曜もボランティア労働に出たが、疲れて帰宅してもシャツを脱ぎ上半身裸で子どもたちと遊んだ。妻で秘書のアレイダさんは24時間付き添った。
ゲバラはいつもオリーブグリーンの軍服を着ていたが、アレイダさんも服はわずかだった。「外国要人の歓迎会に7回も同じドレスだったって、本当か」というゲバラの問いかけに、彼女は「いいえ、8回よ」と答えた。
ふたりの共通の愛読書は『ドン・キホーテ』だった。アレイダさんは回想録でゲバラを「日々、新たな活力をよみがえらせていた。永遠に成長する人間だと思った」と記す。このころの生活については「私たちは愛と夢と希望に満ちた男と女だった」と書いた。
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しかし、やがてゲバラは大臣の職も家庭も捨て、南米のゲリラ戦争に向かった。キューバの次は祖国アルゼンチンの革命を目指し、まず隣のボリビアから手をつけようとしたのだ。アレイダさんは「悲しい思い出の場所がある。海岸でふたりきりになったとき、彼はキューバを去ることを突然、私に告げた。私にとって、世界が終わったような気がした」と述べている。
ゲバラの下で工業副大臣だったオルランド・ボレゴさん(71)は「チェは常に完璧(かんぺき)であることを追求し、それを完成した人間だ。アレイダは革命家で、主婦で母で労働者でもあり、彼と適合性があった」と話す。
ゲバラの出国後、アレイダさんあてに封筒が届けられた。中には、彼が詩の朗読を吹き込んだテープが数本入っていた。「それを何度、聴いたことだろう。聴くたびに、私も彼といっしょに行くべきだったという思いにさいなまれた。一方で、私たちの真実の愛が育んだ子どもたちを成長させようと思った」と彼女は書きとめる。
ゲバラがアレイダさんあてに書いた手紙も残っている。「アレイダ、強くあれ。私たちが結婚したとき、私がどんな人間か、君には分かっていたはずだ。熱烈に私を愛してくれ。私の道はすでに描かれている。止めることができるのは、死だけだ。君は人生を突き進んで、打ち勝て」
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アレイダさんはふと、考える。「私は、彼が望んだほど十分に強く生きて来ただろうか。確信は持てない。彼は現代のドン・キホーテだ。新たな風車に立ち向かっていった。私は自分が時には(ドン・キホーテの『思い姫』だった)ドゥルシネアだと、時には(従者の)サンチョ・パンサだと思った」
そして回想録の最後で記した。「世界の社会主義が次々に消滅する今、チェなら、もう一度、新たな闘いを呼びかけるだろう」
文・伊藤千尋、写真・小杉豊和