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愛の旅人

「蝶々夫人」

蝶々さんとピンカートン

2007年11月10日

 長崎港を見下ろす長崎市南山手地区にある旧グラバー邸の庭に立つと、白く現代的な女神大橋をくぐって青くなめらかな港に滑り込んだ船が、ゆったりと横切っていくのが見える。

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旧グラバー邸近くに残る小菅修船場跡。ソロバンドックと呼ばれ、明治元年完成の日本最初の近代的ドックだ

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グラバー園内で写真を撮りあう女性たち。後ろは古くからの建物が残る東山手地区

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オランダ坂にはオランダ溝と呼ばれる排水溝が残る=いずれも長崎市で

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蝶々夫人に扮した喜波貞子(きわ・ていこ)=グラバー園提供

 「ある晴れた日 海のはるか彼方(かなた)に 煙がひとすじ見え、船の姿が現れる。 真白い船が港に入ってくると礼砲がひびきわたる。見える? 帰っていらしたのよ!」(福原信夫訳)

 オペラ「蝶々(ちょうちょう)夫人」で、18歳の蝶々さんは、愛する「夫」の米海軍中尉ピンカートンが帰る日を夢見て歌う。

 ついに船が入港すると、震える手に持った望遠鏡で夫の船の名を見つけ、心躍らせるが、翌日、夫の裏切りを知り、丘の家で命を絶つ。

 あの有名な悲恋物語の舞台は、やっぱりここなのか、と思う。蝶々さんの家の設定と、あまりに似ている。

 貿易商トーマス・ブレーク・グラバー(1838〜1911)の建てた風格ある洋館は、ピンカートンが「吹けば飛びそうな」と評した日本家屋とは違う。でも目の前には、かつて米国人がよく上陸した海岸。館を背に海を眺めた瞬間、そこが「蝶々さんの庭」になってしまうのは私だけだろうか。

 オペラを作ったジャコモ・プッチーニも、その元になった戯曲を書いたデービッド・ベラスコも、その元になった小説を著したジョン・ルーサー・ロングも、ここを訪れたことはない。

 ロングは、宣教師の夫アービン・コレルとともに南山手の向かいの丘にある東山手に住んだ姉サラから長崎の話を聞き、小説「マダム・バタフライ」(1897年発表)を書いたとされる。

 オペラは長い間、かれんで従順な少女が捨てられて死を選ぶメロドラマとして上演されてきたが、「原型」の蝶々さんは、受け身なだけでなく、拒む強さを持つ女性として描かれていた。

 コレルが当時校長を務めた鎮西学館(後の鎮西学院)ゆかりの長崎ウエスレヤン大学(諫早市)を訪ね、同学院理事長だった古崎博さんが1981年に出版した唯一の翻訳本『原作 蝶々夫人』を一部譲ってもらった。

 原作によると、蝶々さんは「ヒガシヒル(東山手)」の家に、年下の女中スズキとピンカートンの出航後生まれた幼い息子と暮らしており、向かいの丘(南山手)にはキリスト教の教えを受けに訪れた宣教師館がある。

 彼の裏切りを知った蝶々さんは彼の金を突き返し、夫の元同棲(どうせい)相手と知らず「まあ可愛いこと! キッスしてちょうだい。きれいなオモチャさん!」と言う彼の妻アデレイドを静かに拒絶する。そして「栄誉ある生なければ 死の栄誉を得るために」死を選ぶ。

 しかし、最後のページには「ピンカートン夫人が翌日ヒガシヒルの小さな家を訪れたとき、そこにはもう誰もいなかった」とあるだけだ。

 「そうです。蝶々さんは生きていたんです」。意外な話を聞いた。

丘の上にもうひとつの愛

 坂本龍馬らを支援した豪商小曽根家の子孫、小曽根吉郎さん(60)が長崎市の居留地跡を案内してくれた。「外国人たちの選んだ南山手と東山手という二つの丘の間の入り江と、丘の前の海岸を地元の商人たちが埋め立てて居留地を造ったんですよ」

 「マダム・バタフライ」原作者の姉夫婦が暮らした東山手十二番館など洋館が点在する石畳の急坂を上ると、居留地境を示す、くすんだ赤色の塀がある。「初期の居留地で使われたコンニャクれんがです。少し薄いでしょ」

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 安政の五カ国条約によって長崎が開港した2カ月後の1859年9月、スコットランド生まれで21歳のトーマス・グラバーが多くの貿易商とともに上海からやってきた。

 グラバーは同郷の貿易商のもとで働いた後、茶や金銀を扱うグラバー商会を設立。短期間で長崎最大の商社に育て、63年にグラバー邸を建てた。

 日本語を巧みに操り、貿易や医学などの先進地・長崎で、後に明治維新の立役者となる若者たちと信頼関係を築き、艦船や武器の調達・販売などを通じて薩長両藩を支援した。特に薩摩藩士の五代友厚(ごだい・ともあつ)(才助)と親しく、彼の紹介で、離縁されて大分から大阪の造船所・淡路屋の実家に戻っていた談川ツルと出会い、長崎で暮らし始めた。

 グラバー邸から南西へ約1キロ、大小のドックが並ぶ海岸の入り江に、グラバーが造った日本最初の近代的ドック・小菅修船場が眠っている。ここにもコンニャクれんがが使われ、上からの様子からソロバンドックと言われる。

 完成から約80年後の1949年。「ソロバンドックを初めて造った外国人」を唯一の手がかりにその夫婦の足跡を探す人がいた。野田平之助だ。

 娘で暁星国際学園職員の野田和子さんが説明してくれた。「母は、ツルが最初の嫁ぎ先(大分)で生んだ娘センの孫でした。父は、祖母たちにツルのお墓探しを頼まれたのです」。センは18歳のころ1年間だけ大分を離れ、グラバー邸で過ごした。その楽しい思い出を娘たちによく語ったという。

 「聡明(そうめい)温順な貞潔な夫人であった。グラバーは、その人柄に惹(ひ)かれて、彼女を妻とする決心をして自邸に迎えた」「しとやかな、りっぱな人だった」――ツルを探し当てた平之助は、資料や証言を丹念に集め、「グラバー夫人」という冊子をまとめた。

 ツルの位牌(いはい)や墓にアゲハチョウの紋があり、ツルがモンシロチョウの紋の入った着物を着ていたことなどから「蝶々夫人のモデルはツルではないか」と唱えると、脚光を浴びた。

 しかしツルが元芸者で、グラバーにはピンカートンのような過去がある、という憶測も呼び、センの子孫たちは「汚名を晴らして」と懇願した。

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 和子さんは父の遺志をついでツルと蝶々夫人の関連について調べている。

 最近、米テキサス大に「20年後の蝶々夫人」という原作者ロングの未発表戯曲があることを突き止めた。ピンカートンの元にいる愛息の訪れを待ちながら「ヒガシヒル」に暮らす蝶々さんの姿が描かれていた。

 「蝶々さんの『待つ愛』は、ついに奇跡を起こします。ロングは、蝶々さんを通して日本女性の芯の強さや『待つ愛』を描きたかったのでは」。和子さんは蝶々さんに、ツルの姿をみる。

 薩摩藩とのドック建造、佐賀藩と高島での炭鉱開発と、大きな事業を手がけていたグラバーだったが、明治になって約2年後の1870年、グラバー商会は倒産する。幕府や各藩からの支払いを回収しきれないなど資金繰りが悪化したうえ、貿易の中心が横浜・神戸に移るなど悪条件も重なり、33歳で貿易の一線から退いた。

 だが、居留地の指導者や明治政府要人のアドバイザーとして重用され続けた。高島の炭鉱の支配人や、炭鉱経営を引き受けた三菱の顧問などを務める一方、キリンビールの前身ジャパン・ブルワリーの設立に尽力したり、鹿鳴館の書記として着物姿のツルと接待役を務めたりと、長崎と東京を舞台に長く華やかな余生を送った。

 東京に落ち着いて数年後の1899年、ツルは胃がんで亡くなった。ツルの墓は、ソロバンドックとグラバー邸の間の眺めのよい丘につくられた。

 12年後、グラバーが73歳で東京・南麻布の自宅で亡くなると、ツルの墓から分骨して夫婦の墓がつくられた。

 ふたりの記録は多くないが、落ち着いた表情のツルの腕に、グラバーがそっと手を添えた写真が残る。

 「昔も今も長崎には外国人と日本人のカップルは多いが、夫婦になって長く連れ添い、同じ墓に入れたのは、グラバー夫妻が最初かもしれないね」。小曽根さんが、ぽつりとつぶやいた。

文・魚住ゆかり、写真・柏木和彦

〈ふたり〉

 蝶々さんは西南戦争で切腹した武士の娘だが、父の死後に家は没落。オペラでは芸者だが、原作小説では「歌や踊りで生計をたてていた」とある。米海軍士官ピンカートンは、オペラでは蝶々さんとの「結婚」を前に「米女性と本当の結婚をする日のために」と乾杯し、帰国後結婚したアデレイド(オペラではケイト)を、蝶々さんが待つ長崎に連れてくる。

 長崎総合科学大教授のブライアン・バークガフニさん(57)によると、当時外国人の間で、金で芸者らとの「結婚生活」を手に入れるのがはやっていたという。

 イタリアの代表的なオペラ作曲家プッチーニは、滞在先のロンドンで舞台版「蝶々夫人」に感銘をうけ、美しいアリアがちりばめられたオペラを作った。

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