高さが5メートルもある、家のような石造りの建物が並ぶ。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスのレコレータ墓地。黒光りする御影石がエビータの墓だ。業績をたたえる11枚の銘板がはられ、訪れた人々がささげた赤いバラやカーネーションが扉に挿してある。
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神聖さを感じさせるエビータのデスマスク。波乱の人生を終え、静かに眠る=アルゼンチン・ブエノスアイレスで |
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タンゴ発祥の地、カミニートで観光客を相手に踊りが披露される=アルゼンチン・ブエノスアイレスで |
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「五月広場の母たち」によるデモ行進。後方は大統領府(下)タンゴ発祥の地、カミニートで披露される踊り=いずれもブエノスアイレスで |
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ペロン夫妻 |
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エビータはこの墓地の地下4メートルの部屋に、生きていたままの姿で眠っている。1952年に亡くなった直後、全身に防腐処置を施されたのだ。
市内のエビータ博物館には金属製のデスマスクが展示してある。真っ暗な部屋で一条の光に照らされて金色に輝く面立ちは、荘厳ささえ感じさせた。この博物館は、エビータが設立したエバ・ペロン財団の建物だった。本人が着たドレスや、財団が貧しい人々に贈ったミシンなどが展示してある。
エビータは既婚の男の愛人の子として生まれた。4人の兄姉とともに、裁縫をする母の手一つで育てられ、「子どもの頃から世の中の不公平に怒りを覚えた」という。逆境を跳ね返して女優になろうと15歳で家出し、巡業に来た男性歌手に無理やり同行して首都に出て、ラジオドラマに出演した。
地震の被災者へのチャリティーショーでエビータは、軍の実力者だったペロン大佐の隣に座って話しかけ、彼の心を射止める。強引に彼の家に引っ越し、彼の愛人を追い出して同居した。
46年に大統領になったペロンは最低賃金を定め有給休暇を制度化するなど労働者のための政策を進めた。大統領夫人になったエビータは慈善事業の先頭に立ち「貧者のマドンナ」と呼ばれた。独裁者ペロンの人気はエビータの慈善事業のたまものだとも言われる。
「私たちは互いに求めていたから結婚した。なぜ求め合ったかというと同じことを望んだからだ」と彼女は自伝で語った。同じこととは「貧しい人々の解放」である。「彼は形で、私は影」とも述べている。
エビータを世界的に有名にしたのは、死後の78年に初演されたミュージカルや96年にマドンナが主演した映画だ。マドンナは「私もキャリアを積もうと17歳でニューヨークを目指した。エビータも私も、目標を達成するために役立つ男と関係を持った」と語った、と彼女の伝記にある。
ペロンも恋多き男だった。エビータは2度目の妻だ。最初の妻は30歳で病死し、28歳年下の女性と同居中にエビータが現れた。彼女の死後、ペロンは44歳年下の女子中学生を見そめて同居する。クーデターで地位を追われると亡命先で知り合った36歳年下の踊り子イサベルと3度目の結婚をした。
街角で若い男女がタンゴを踊る。男女が絡み合う官能的な踊りだ。額をくっつけて互いに支え合うポーズで停止した。男女がそれぞれの思惑で持ちつ持たれつするが、周囲から注目されるのは女性の方だ。エビータとペロンの関係を象徴するように思えた。
私のために泣かないで
ブエノスアイレスの中心部に大統領府がある。壁一面がピンクに塗られ、いかにも情熱の国らしい。映画「エビータ」では、そのバルコニーに立ったエビータが群衆を前に「アルゼンチンよ、私のために泣かないで」と歌う。現実のエビータもここで演説し喝采を浴びた。
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大統領府の前の「五月広場」で木曜の午後3時半、老女たちがデモを始めた。ペロンの死後にクーデターで政権を握った軍は、ペロンの支持者ら左派系の人々を虐殺したが、その遺体の多くが今も不明のままだ。デモをするのは、連れ去られた夫や子どもがどうなったか明らかにせよ、と迫る「五月広場の母たち」のメンバーだ。1977年に始めて30年、毎週木曜に一度も欠かさずデモをしてきた。
デモの先頭は15人の女性だ。「行方不明者の人生を明らかにせよ」と青い文字で刺繍(ししゅう)した白いスカーフを頭に巻き、行方不明者の写真を首からつるす。後ろには支持者50人ほどが続く。メンバーにはエルサ・オオシロさん(53)ら日系人もいる。
最前列にいたホセフィーニャ・ガルシアさん(86)は、30年前から毎回デモを続けている。76年、自宅を襲った軍人が29歳の大学教師だった娘のマリアさんを連れ去った。以来、彼女の消息は知れない。ガルシアさんは「演説するエビータを見た。彼女は貧しかった私の子どもにおもちゃを贈った。彼女の以前には誰も貧しい者のことなど考えなかった」と語った。
デモのリーダー、ナディア・デルガドゥさん(80)は「私たちにとって、エビータは今も生きている。今の政府は私たちの立場に立っている」と話した。実際、キルチネル現大統領は「ペロン党」と呼ばれる正義党の党首だ。英国とのフォークランド戦争に敗れて軍事政権が倒れたあとアルゼンチンは民主化し、今はペロンの遺志をくむペロン党の政府が復活した。
次期大統領を決める選挙が10月28日に行われた。当選したのはキルチネル大統領の妻クリスティナ・フェルナンデスさん(54)だ。元弁護士で上院議員のため「南米のヒラリー」と米国で呼ばれるが、アルゼンチンではエビータの再来と言われる。学生時代からペロン党員だった彼女は、同国史上初の選挙で選ばれた女性大統領として、12月10日に夫から政権を引き継ぐ。
「五月広場の母たち」の機関誌の9月号は、「クリスティナとともに新しい社会を建設しよう」と呼びかける。エビータの時代の再来を期待するような雰囲気がある。
大統領府の反対側の広場では、労組の若者200人が集会を開いていた。国旗の中央にある太陽の代わりにエビータの顔を描いた旗を掲げる。「エビータは今も貧しい者の闘いの象徴だから」と、代表のマリア・エステラさん(28)は語った。
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それにしてもなぜ死後もエビータはこれほどの影響力を持つのか。
アルゼンチンが軍政だった70年代後半にブエノスアイレスでラジオ局のアナウンサーをし、今は那覇市の市場で南米料理店を経営する金城艶子さん(60)は「自分が苦しかったとき政治に望んだ夢を、エビータはそのまま実行した。貧しくても努力したら成功することを身をもって示した。民衆は彼女を聖人と思っています」と語る。
事実、エビータは自ら慈善事業の現場に出て、1日に18時間も働いた。午前5時に疲れ果てて帰宅しても、8時には起きた。自分ががんに侵されたことがわかっても休まず、梅毒に侵された女性の傷口にキスしたこともある。
それまで政治から見向きもされなかった貧しい人々は、自宅に彼女の祭壇を作った。彼女の死後、ローマ法王庁には、彼女を聖者にするように求める手紙が4万通以上届けられたという。
エビータとペロンの関係について、エビータ博物館の学芸員パブロ・バスケスさん(36)は「エビータは変革の時代に最も必要だった人だ。ペロンが頭に描いた政策を、エビータが設計した」と説明した。
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ペロンの遺体は首都の別の墓地に葬られていたが遺言に基づき昨年10月、首都郊外に造られたペロン博物館に改葬された。そこには大きな十字架の下に「ペロン―エビータ」とふたりの名が彫られている。エビータの遺体もここに移される計画だった。しかし、エビータの遺族はふたりのねじれた愛情関係を理由に、移動を拒んでいる。
ペロンの妻となって歴史の舞台に躍り出たエビータは、ペロンを乗り越えて伝説的な存在となった。アルゼンチンのジャーナリストは彼女を「タンゴのシンデレラ、ラテンアメリカの眠れる森の美女」と呼ぶ。
文・伊藤千尋、写真・小杉豊和