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愛の旅人

バレンヌ事件

マリー・アントワネットとフェルゼン

2007年12月15日

 晩秋のパリ。小雨に煙るルーブル美術館は、肌寒い月曜日にもかかわらず、ごった返していた。

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アントワネットらの国外逃亡を阻止した村の墓地で、事故で失ったという孫の思い出を語り合う人たち=フランス・バレンヌで

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ルーブル美術館に保管されているアントワネット愛用の旅行セット

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王妃が望んで造らせた「プチウィーン」とも呼ばれる村里=フランス・ベルサイユで

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小箱に描かれたマリー・アントワネットとルイ16世

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 映画化もされた『ダ・ヴィンチ・コード』の人気で、いまや年830万人が訪れる巨大美術館の喧騒(けんそう)をよそに、3大棟の一つ「シュリー翼」の薄暗い第34室は古い宮廷調度品が並び、閑散としている。その奥に、3年前から閉鎖されたままの展示室「マリー・アントワネットの間」がある。

 美術館の許可を得て、学芸員のフレデリック・ダサスさん(45)に案内されて扉の先へ進む。

 古ぼけた旧展示室の中で、ひときわ目を引いたのがアントワネットが愛用したという旅行セットだった。王妃の頭文字「M」「A」を組み合わせたマークが刻印された皿、ティーポット、カップ、手鏡、化粧水の瓶……。50余りの旅行携行品が一分のすきもなく、びっしり収まっている。けた外れの量感に圧倒される。

 この旅行セットを前に、アントワネットは迷っていた。

 18世紀末、王室の財政は破綻(はたん)し、国民は飢えに苦しんでいた。民衆の怒りは、国王夫妻をベルサイユ宮殿から追い出し、廃屋同然のパリ・チュイルリー宮に押し込めても収まらなかった。フランス革命が頂点に達しようとしたとき、アントワネットは「破滅するか、残されている唯一の道を進むか、どちらかしかありません」と身内への手紙に書き、恋人のフェルゼンが持ちかけた亡命の計画に乗る。

 その頃、アントワネットは「姉へのプレゼント」という口実で旅行セットの複製を作らせていた。本当は亡命先に持っていくためだった。1人では持ちきれないほど重い愛用のケースが王妃と一緒に姿を消せば、すぐに逃亡と分かってしまうからだ。

 しかし、その複製は決行の日に間に合わなかった。

 怪しまれるのを覚悟で事前に亡命先に送ってしまうか。それとも国外逃亡の馬車に積み込むか。慎重を期してチュイルリー宮にそのまま残しておくか――。アントワネットが実際にどういう選択をしたのかは、記録をたどってもはっきりしない。ただ、しぶる王を説得して家族とフランス王政の運命までもフェルゼンに委ねたアントワネットは、旅行セットもまた運命の馬車に乗せたのではないか。

 1791年6月。パリを深夜に抜け出した国王一家は、約24時間後にフランス北部の国境に近い村バレンヌで村人らに捕らえられる。巨額の逃亡費用も用立てたフェルゼンの献身的な努力もむなしく、ルイ16世とアントワネットは国を裏切ったと見なされ、その2年後に断頭台に消える。

 破滅を自覚したであろうバレンヌの夜。彼女が援軍の将に口にしたのは、「フェルゼンは無事だと思いますか」と恋人を気遣う言葉だった。

平穏な暮らしを望んだ王妃

 早朝、パリ東駅を出た列車は帰省客で埋まり、どこか懐かしいムードに包まれていた。あたり一面の田園を覆う霧が晴れた頃、菊の花を手に墓地を歩く人たちの姿が見えた。

 フランスの11月1日は「死者の祭り(ラ・トゥサン)」。年に一度、肉親の死を悼む「お盆」のような休日で、多くの人が故郷に向かう。

♪  ♪  ♪

 「午後11時前、国王夫妻の馬車はここに止まったのです」

 バレンヌの村長、ジャンマリー・ランベールさん(69)は博物館の前の通りに目を向けて言った。

 村人が国王の亡命を阻止し、パリに追い返した約200年前の「バレンヌ事件」について、シュテファン・ツワイクの著『マリー・アントワネット』と、村での説明は少し違った。再び動き出した馬車を捕まえたのは下り坂のすぐ先、道路をまたいで立っていた教会のアーチをくぐったところだという。ツワイクが書いた「大君主館」という宿は少し先の橋を渡ったところに今もある。しかし、村の小学生たちが作った紙の模型で説明してくれた博物館のシャンタル・ドゥビルさん(60)は「誰も橋を渡っていない」という言い伝えを繰り返すのだった。

 革命を成就させたともいえる事件は人口710人の村にとって、それほど誇らしい記憶ではないようだ。国境に近いこの村は翌年の1792年にオーストリア軍に占領され、第1次大戦でも壊滅的な打撃を受けた。歴史を語る子孫はいないし、観光客もめったに来ない。約300メートルの「ルイ16世通り」の名付け親、ランベールさんも「事件は世界史に残る意味があったと思うが、現場の一つがここだったというだけ」とそっけない。

 村のはずれに共同墓地があった。モノトーンの灰色の墓地に、村人が供えた菊の鮮やかな黄色が映える。荒れ地に咲くブルイエという赤紫の小さな花も彩りを添えていた。村人たちは村長やドゥビルさんと抱き合っては言葉を交わし、祖先の墓に向かう。村でただ一つの小学校の教員を長く務めた2人を知らない村人はいない。

 アントワネットは、生涯を通して庶民の地に足を踏み入れたことがなかった。唯一の例外がバレンヌにいた数時間だ。18歳で王妃になって間もなくベルサイユに故郷ウィーンの農村を思わせる人工的な農園を造らせた。栄華を極める一方、14歳で異国に嫁いだ寂しさを紛らせ、厳格な宮廷生活から逃れるために求めたのは、バレンヌのような素朴な暮らしだった。

♪  ♪  ♪

 革命の嵐の中でアントワネットが大切にした品も、きらびやかな宝飾品ではなかった。

 遺品ともいえるコレクションがルーブル美術館とベルサイユ宮殿にある。母親の女帝マリア・テレジアから譲られた日本の漆の小箱、歴代皇帝が描かれた銀の盆など。パリの商人に預けて革命をくぐり抜けたものは、故郷をしのぶ思い出の品ばかりだった。

 王妃の旅行セットについて「全体の調和を何より大事にしたアントワネットの美意識がよく表れている」と同美術館の学芸員ダサスさんは解説する。象牙細工の小道具を収めた楕円(だえん)形の容器は3層からなり、抜き取ることができる。何度も作り直しをさせたのだろう。器物の間に1センチのすき間もない。贅沢(ぜいたく)だが、派手ではない。おそらくは亡命が成功したら王妃をやめ、フェルゼンとの平穏な生活を求めたであろうアントワネットの夢、生への執着が伝わってくるようだ。

 旅行セットは長く個人が所有し、1955年に同美術館が取得した。遅れて完成したひと回り小さな複製は南仏のグラース美術館にある。

 ふたりは、バレンヌ事件のあと国外に逃れたフェルゼンがパリに決死の潜入を図り、一度だけ再会している。アントワネットは処刑の瞬間まで気高くふるまったが、フェルゼンは亡命が失敗したことをただ嘆き、王妃の死後はなおさら悔やみ続けた。

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 バレンヌ事件から19年後、事件と同じ6月20日にフェルゼンはスウェーデンの首都ストックホルムで暴徒に撲殺される。ツワイクは「運命の偶然」と書いたが、今年1月に出版された新訳本(角川文庫)を訳したドイツ文学者の中野京子さんはこう思う。「フェルゼンは危険だと忠告されていたのに馬車を出した。この日、自ら死を選んだと思えてなりません」

 旅の最後に、アントワネットが埋葬されているパリ郊外のサンドニ大聖堂を訪れた。歴代の王が眠る荘厳な教会で王妃の墓だけにユリの花があった。参拝者が持ち込んだという。その日、11月2日がアントワネットの誕生日だったことを思い出した。

〈ふたり〉

 ハプスブルク家に生まれたオーストリアの皇女マリー・アントワネットは、14歳でフランス王室に嫁いだ。鈍重な王太子ルイ16世との結婚生活は幸福とはいえず、快楽に明け暮れる彼女が仮面舞踏会で心をときめかせたスウェーデンの貴公子がフェルゼンだった。

 たわむれの恋が本物の愛に変わったのはフランス革命が始まった1789年ごろからだ。アントワネットが国中から憎悪を浴び、友人も離れたとき、フェルゼンが心のよりどころとなる。その事実は長く封印されていたが、ふたりの死から1世紀ほど後に私信が公開され、王妃の人間像が根底から覆された。「偉大な魂のドラマ」を描いたツワイクの名著『マリー・アントワネット』は広く読まれ、池田理代子さんの『ベルサイユのばら』も生まれた。

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