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愛の旅人

「団栗」

寺田寅彦と妻夏子

2008年01月12日

 高知港の入り口にあたる種崎と桂浜の間の海峡は、幅わずか200メートルほどである。この狭い海峡を縫うようにして船が出入りする。浜にいる人々の姿が船上からはっきり見える距離だ。

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狭い海峡を貨物船が行く。中央の林が種崎の貴船神社。夏子が療養していたのはこの近くだった=高知市浦戸で

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寅彦が療養生活を送った須崎の海岸。随筆「嵐」に当時の光景が描かれている=高知県須崎市で

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夏子の墓の前には、ドングリが散らばっていた=高知市で

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相関図

  

 1901(明治34)年、高知に帰省していた東京帝国大学学生の寺田寅彦は、船でここを通ると決まって浜を見つめた。妻夏子がこの地でひとり、肺結核の療養をしていた。あらかじめ手紙で知らせておくと、夏子は浜に出てハンカチを振った。

 「このあたりですね、夏子さんが最後に住んだ家があったのは」

 高台に立つ坂本龍馬の銅像からしばらく下った桂浜の集落のはずれで、寅彦研究家の山田一郎さん(88)は説明してくれた。狭い道が護岸壁沿いに続く細長い集落の端だった。100年前は人家もまばらだったという。かつては浜だったであろう護岸壁に上がれば、対岸が目前だ。

 この近くで生まれた山田さんは、長年共同通信の記者を務め、常務で退職後、故郷に戻り、寅彦を研究。数冊の著作がある。

 「夏子さんは、集落の中央寄りに住んでいたけど、病気がうつると苦情がきて、はずれに移った。近所の子どもたちは、夏子さんの家の前では、口を手で押さえて走ったといいます」

 夏子が突然、血を吐いたのは1900年暮れ、東京・本郷西片町の家だった。熊本の第五高等学校の学生だった寅彦が14歳の夏子と結婚したのはその3年前。結婚後も夫熊本、妻高知と離ればなれだったふたりが、ようやく東京で同居して1年もたっていなかった。17歳の幼な妻には、新しい生命が宿っていた。

 翌年2月の暖かい日、寅彦は小康を得た夏子を伴って、家からほど近い小石川の植物園に行く。久しぶりの外出に喜んだ夏子は、園内の小道でドングリをハンカチいっぱい拾った。寅彦の「団栗(どんぐり)」はその思い出だ。夏子は半月後、高知に戻された。肺結核の伝染を恐れた寅彦の父・利正の判断だった。

 夏子は高知市内から小舟で2時間以上かかる種崎で療養した。空気のいい浜辺でという配慮だろうが、「隔離」でもあった。5月、女児誕生。東京で吉報を知った寅彦は「幸ありて桃の若葉と照り栄へよ」という俳句を日記に記した。父から貞子と名づけた、と知らせがきた。

 貞子は生まれるとすぐに高知市の寅彦の実家に預けられ、祖母に育てられる。肺を病んだ母親は、自分の子どもと暮らせないのだ。夏子はその後も種崎、さらに追われるように対岸の桂浜に移り、貞子を生んだ翌年の秋、息を引き取った。満19歳だった。

 ふたりの結婚には謎が多い。当時、早婚は珍しくなかったとはいえ、18歳の高等学校学生と14歳の結婚は早すぎないか。結婚の年だけ、寅彦の日記が欠落している。なぜだろうか。

秘された結婚のいきさつ

 「たぶんこのときに間違いありませんね。モーア師演説会の記述があります」。高知市から西へ特急で40分、高知県須崎市にある須崎教会の牧師、黒田若雄さん(43)は、「須崎教会会報」に載っている教会史の記事を見て言った。それによると、1902(明治35)年、須崎に伝道にきた米国人宣教師ワーレス・モーアがここで演説会を開き、数十人の聴衆が集まった。

 ちょうどこのとき、寺田寅彦も肺尖(はいせん)カタルのため、須崎で療養していた。「風呂に入れる時モアー氏方の雇婆(やといばあ)来り、今夜説教を聞きに来ぬかとの事故(ゆえ)夕方より出掛く」という同年1月26日の日記の一節がそれにあたる。

 妻夏子も高知市郊外の種崎で療養中だった。同じ高知県内にいても、ふたりは一緒に暮らせなかった。寅彦がときどき見舞いに行き、具合がいいと夏子は高知の寅彦の実家に来るくらいだった。須崎と種崎で、ひんぱんに手紙がやりとりされた。「今の自分の境遇は波打ち際の落ち葉のようなものだ」と孤独を訴える夏子の手紙が、寅彦の日記にある。

♪  ♪  ♪

 ふたりは仲むつまじい若夫婦だった。寅彦は、療養中の一日を記した夏子の日記を添削して、正岡子規が主宰する雑誌「ホトトギス」に投稿した。奈津女という名でその文は載り、夏子をいっとき、幸福にさせた。

 夏子は1883(明治16)年、熊本で生まれた。寅彦の父利正と同郷で陸軍仲間の阪井重季(しげすえ)の長女だった。兄2人と妹がいるが、夏子だけ高知で祖母に育てられた。

 阪井家は夏子にどこか冷ややかだった。東京で夏子が肺病で倒れ、若い夫婦が途方に暮れたときも、当時東京に住んでいた夏子の母がとんできて看病した気配はない。前後の年の日記は残っているのに、結婚年だけないのは、結婚に関して秘すべき事情が記してあったため、後に寅彦が廃棄した可能性が大きい。

 「こうした事実を集めると、ある推測が現実味を帯びてくる。夏子の母は阪井の妻ではないのではないか」と山田一郎さんは言う。親族の間でも同様のうわさがささやかれていたという。

 利正と阪井は一時期、熊本の鎮台で同僚だった。ここで阪井はある女性と親しみ、夏子が生まれたのではないか。利正はすべてを知った上で、家格の高い阪井家と長男の縁組を決めた。寅彦はようやく生まれた末っ子の一人息子だ、早く内孫を見たかっただろうし、利正が養子だったことも影響したかもしれない。

 夏子発病後、ふたりを離したのも利正の判断だった。大事な跡取りを守らねばならない。

 利正は決して冷たい男ではない。夏子の療養先を探し、家も買った。病が重篤になると、鶏のスープを持って、毎日のように小舟で2時間以上かけて高知から桂浜に見舞いに行った。結核患者の「隔離」は当時の常識だったのだろう。孝行息子、寅彦は父の処理をすべて受け入れる。だが、心のすみで、父の冷静、冷厳な処置に反発する気持ちもあったのかもしれない。

♪  ♪  ♪

 利正の死後、高知に残る寺田家の広大な地所は在京の寅彦が引き継いだ。不在地主の寅彦は、短い期間にほとんどの地所を売り払ってしまった。山田さんは「父の呪縛、重荷から解放されたかったのではないか」とみる。

 「団栗(どんぐり)」の結末で、寅彦はドングリを拾う無邪気な遺児を見て、「始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだ」と述懐する。「終わり」は理解できるが、「始めの悲惨」については不明とされていた。山田さんの推測通りなら、その意味が了解される。

 寅彦は夏子を忘れられなかった。

 「団栗」はじめ、いくつかの随筆にさりげなく登場させている。随筆を書くときは「吉村冬彦」というペンネームを使った。吉村は寺田家の先祖の名字であり、冬彦は「夏子」のイメージから、といわれる。

 夏子の忘れ形見、貞子は母と1歳半で死別し、母の記憶はなかった。

 寅彦は夏子の死後に再婚し、4人の子をもうけた。その妻も30代で急死、さらに再々婚した。3番目の妻を迎え、複雑な家庭ドラマが生じるが、それはそれでまた、別の物語である。

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 寅彦の死後40年余りたった1977(昭和52)年の夏、東京・日本橋の丸善で、寅彦の絵画展が開かれた。寅彦は絵をよく描き、自画像や風景画をたくさん残していた。会の世話をした、長男東一の知人の山下一郎さん(94)によると、70代になった貞子は毎日、会場に姿を現した。いつも会場のすみのいすに腰かけて、父寅彦が描いた絵を静かに眺めていたという。

〈ふたり〉

 寺田家は土佐藩の下級武士の家系で、寅彦の父利正は養子だった。寅彦は初めての男の子で、一家の期待を担った。熊本の第五高等学校で英語教師の夏目漱石に俳句を学び、生涯師事する。東大で物理学を研究する一方、地震や風水害の予防の重要性を随筆で訴え、阪神大震災後にその先見性が改めて注目された。「天災は忘れたころにやってくる」は寅彦の考えを要約した警句として有名だ。漱石の「吾輩(わがはい)は猫である」の寒月君、「三四郎」の野々宮さんのモデル。

 夏子は少女時代から目立つ美人で、松山に住んでいたころ、松山の中学生だった安倍能成(よししげ)(漱石の弟子で教育者、元文相)があこがれていたといわれる。目が大きく、「お夏さんの目が光るからランプはいらぬ」と親族の子どもから言われた。「感情の強い人だった」と寅彦は評した。

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