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愛の旅人

東京コミックショウ

ショパン猪狩と妻千重子

2008年02月02日

 金ぴかの派手なチョッキにダブダブのズボン。アラビア風の奇妙な格好で、怪しげな英語を操る。

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スポットライトに照らされる蛇のぬいぐるみ。「懐かしいわ」と猪狩千重子さん。箱の中には記者が入った=東京・浅草の木馬亭で

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「日本最古の遊園地」といわれる花やしき。浅草の空は広い=東京・浅草で

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ネオンに灯がともる頃にぎわい始める通称「ホッピー通り」=東京・浅草で

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デビューした頃、宣伝用にスタジオで撮影

相関図

  

 「ヘーイ、レッドスネーク、カモン! ユー、アー、ナイスジェントルマン。プリーズ、オープン、ザ、ドア」

 ピーヒャラリと笛を吹けば、あら不思議。箱の上に置かれた赤、黄、緑のカゴから蛇のぬいぐるみが顔を出した。まるでインド大魔術の雰囲気だ。

 「一代限りの名人芸」と言われた東京コミックショウのお出ましである。「いらっしゃ〜い」と客席に向かってあいさつしたとたん、ズボンがずり落ちて、へそが丸見えになるネタもあった。毒舌で知られる落語家の立川談志さんが「世の中の芸で、これほどバカバカしくて面白くて、一度見た人に永遠に残る芸も珍しい」と絶賛したほどだった。

 最後は、両手にぬいぐるみをした人が箱の中からぱっと姿を現し、種明かし。「これ、うちのカミさん。可愛いだろ」。ショパン猪狩(いがり)さんがはにかみながら千重子さんを紹介すると、客席は再び大笑いとなった。

 諸説あるが、この芸が生まれたのは米軍キャンプを回っていた1957(昭和32)年ごろだそうだ。お祭りの見せ物小屋で見た「のぞきからくり」にヒントを得て、箱の中から両手を出してぬいぐるみを操ることになった。新婚時代、内職の必要に迫られて覚えた裁縫の腕を生かして、千重子さんがぬいぐるみや衣装などを作った。

 「世界共通、だれもが笑える」。それがショパンさんの自慢だった。東京・赤坂のナイトクラブに出演していたとき、フランク・シナトラから「アメリカに連れて帰りたい」とチップをもらったこともあった。

 芸人にして怪人。テレビ出演は「規制が多い」と大嫌いで、どの芸能団体にも属さなかった。カネなどを巡るトラブルでマネジャーが「やめる」と言いだし、相棒の鯉口潤一さんと2人の弟子も独立。やむなく蛇の役を演じたのが千重子さんだ。当時40歳。「仕事に女房まで出して」と陰口をたたかれたが、「うちは人件費ゼロの家内制労働。信頼できるのは(妻の)チーちゃんだけ」と開き直った。

 巳(み)年の01年7月8日。浅草寺の「ほおずき市」にあわせ、寄席「木馬亭」で東京コミックショウの特別公演があった。「色物(いろもの)」と呼ばれる大衆芸は、落語や講談などに比べ、低く見られがちだ。「くだらない」「マンネリだ」とさんざん馬鹿にされた彼らの芸は、しぶとく生き残っていたかに思えた。

 久しぶりに聞いた「レッドスネーク、カモン!」の声。だが、箱の中にいたのは千重子さんではなかった。

 「チーちゃんはね、十分尽くしてくれた。背中を丸めながら道具を持ってくる姿を見たとき、ああ、もう無理かなと思った」

 楽屋でショパンさんが語った。

形見は蛇のぬいぐるみ

 夕暮れ。浅草は人波が引き、参道の店が慌ただしくシャッターを下ろす。

 「だいたいねえ、ひょうたん池がなくなってから浅草の衰退が始まったんだよ」。ショパン猪狩さんは生前、池の周りにあった見せ物小屋や焼きそば屋を懐かしんだ。夜のとばりが下りると、飢えた家族のために身を売る女性や浮浪者が集まった。危険でいかがわしいムードが満ちていた。

 ショパンさんが棟割り長屋の自宅から市電を乗り継ぎ、浅草六区を初めて訪れたのは小学生のときだ。通りは人で埋まり、両側には西洋の城のような建物が並び幟(のぼり)がはためいていた。「さあさあ、いらはい、いらはい」という呼び込みの声をよそに、「金龍館」という劇場の楽屋を訪ねた。兄のパン猪狩さんが出ていると聞き、金をもらいに行ったのだった。大酒飲みで失業状態だった父に、その金を渡した。

♪  ♪  ♪

 ひょうたん池が埋め立てられた1951年、浅草花月劇場で上演された「シミキンの拳闘王」に兄とともに出演し、得意の「ボクシングショー」を演じた。やがてテレビの時代が到来。笑いは電波に乗り、芸人の多くが浅草から離れた。83年には、軽演劇と色物芸人主体の興行を行ってきた浅草松竹演芸場が閉鎖。ショパンさんは仲間とともに「浅草笑友会」を旗揚げし、木馬亭で公演した。

 「美女と野獣」と言われた東京コミックショウ。ショパンさんが千重子さんを口説いた場所は、現在のJR新宿駅南口、夜店が並ぶ甲州街道だった。陸橋の上で「僕と結婚して下さい。必ず幸せにしてみせるから。ウンと言わないときは、君を抱えて飛び降りる」と迫った。橋の手すりに足を掛けて飛び降りようとする彼を、千重子さんが後ろからしがみついて「やめて、やめて。一緒になるから」と言った。

♪  ♪  ♪

 千重子さんは山手線の五反田駅近くに住んでいた。翌日ショパンさんは家を訪ね、両親にあいさつをした。女子プロレスの興行が当たり、収入は良かったが、「式なんて単なる形式」と千重子さんは言い、式は挙げなかった。

 結婚を機にショパンさんは兄から離れた。新婚生活を過ごしたのは浅草橋駅近くの柳橋。色香漂う花柳界の街だ。小さな印刷屋の2階8畳間を借りた。家賃6000円だった。

 千重子さんが夕食の支度をしているとき、ショパンさんは我が子を抱き、橋の上から屋形船を見ていた。「ああして、芸者やたいこ持ちを連れてバカ騒ぎをできるような身分になれるかな」。生活費に困った千重子さんが夜、ふかしたトウモロコシを橋のたもとで売ったこともある。ショパンさんは夢中で働き、61年、京王線・桜上水駅近くにマイホームを手に入れた。

 「受ければ祝儀が出る。しかし、こければ、灰皿、コップ、ビール瓶が飛んでくる。そんな修羅場の中で東京コミックショウは着実に力をつけていった」。親しかった編集者の上島敏昭さん(52)はそう語る。ショパンさんが運転するワゴン車に舞台道具や鍋、釜などの日用品を積んで、ふたりだけで全国のキャバレーを回っていた頃が一番楽しかったに違いない。

 だが、狭い箱の中で中腰になるのは重労働だ。パン猪狩さんとの確執、しゅうとめの介護、マネジャーや弟子の裏切りなどストレスも重なり、千重子さんは倒れた。動脈瘤(りゅう)破裂で、20日間も集中治療室に入った。手術は終わり、翌年復帰したが、痛めていた腰は次第に悪化。93年、横浜のキャバレーでの仕事を最後に一線を退いた。

 その後は、ショパンさんが養護施設や老人施設を回り、若手がときどき蛇の役を演じたが、絶妙なやりとりは再現できなかった。「東京コミックショウ」は千重子さんの引退とともに終わったと言えるかもしれない。

♪  ♪  ♪

 05年11月。ショパンさんは胸の痛みを突然訴え、入院した。手術室に向かう途中、千重子さんに向かってVサインをし、指で「OK」と合図。その手で看護師さんの胸を触ろうとした。最後までイタズラ好きだった。十数時間に及ぶ心臓の手術。「誠ちゃん! 舞台が始まるよ! ベルが鳴っているよ!」と千重子さんが耳元で叫ぶと、「ウ、ウー」と振り絞るような声を出して起きあがろうとした。意識は戻らず、心不全で亡くなった。

 それにしても、10年、20年と同じネタで売れる芸はそう多くない。人気の秘密はショパンさんの痛快な話術にもあったのだろうが、千重子さんの支えがなかったら、「道化」を演じ続けることはできなかったに違いない。

 千重子さんはいま75歳。自宅マンションの隣には猪狩家の菩提(ぼだい)寺がある。部屋の窓から墓が見える。残された3体の蛇のぬいぐるみが形見となった。

〈ふたり〉

 ショパン猪狩(本名・猪狩誠二郎)さんは、宮大工の家の五男として東京・目黒で生まれた。浅草の喜劇界で活躍していた長兄・パン猪狩さんの誘いで戦後まもなく芸人に。「小さなパン」をもじって「ショパン」と名づけた。パンさん、妹・定子さんと組み、米軍キャンプやストリップ劇場を回る。1955年、女子プロレス団体を設立。57年ごろエノケン(榎本健一)劇団にいた鯉口潤一さんと「東京コミックブラザーズ」(61年ごろに「東京コミックショウ」と改称)を結成した。

 千重子さんは千葉・館山生まれ。高等女学校を中退後、東京のバレエ研究所に入団。ホテルのショーに出演していたとき、ショパンさんと出会う。55年に結婚。子育てが一段落した72年から東京コミックショウは夫婦のコンビになった。

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