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愛の旅人

清水久典「死にゆく妻との旅路」

オッサンとひとみ

2008年02月09日

 2週間後には本格的な寒波の到来に凍りつく富山県・氷見(ひみ)漁港はまだ、暖冬に慣れきったように、のんびりと緩んでいた。1月上旬、清水久典さん(60)と、昼前の港を歩いた。

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清水久典さんがワゴン車内でひとみさんの最期をみとった氷見漁港。停泊する漁船にぼたん雪が舞っていた

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氷見の中心街は夜になると人の姿が消える

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氷見漁港から南へ下った島尾海岸の公園で飼われている猿。清水さんは懐かしがった=いずれも富山県氷見市で

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結婚後に旅行したふたり

相関図

  

 「最後の場所だから、1カ月に1度はここに足が向くね。港の構内をぶらり歩いて、半日でもいられるから。道の駅はまだなくて、古びた船小屋があった。その裏の岸壁で車を止め、魚を釣ったんよ。野良猫が来たけど、ひとみは猫が嫌いだから……」

 記憶をたどりながら質問に答えてくれる、その口調は丁寧なのに、言葉が脈絡のない独り言のようにくぐもるときがあった。かと思うと、ときおり、じっと黙り込んだ。

 病気のひとみさんとの9カ月のワゴン車での逃避行を書き、15万部を売った手記『死にゆく妻との旅路』の著者は息を詰め、9年前の感情を、元のそのままのかたちで召還しようと集中しているようだった。

 99年12月2日、保護責任者遺棄致死というあまり聞き慣れぬ容疑で、清水さんは警察に緊急逮捕された。

 結局、起訴猶予とはなったのだが、氷見漁港の防波堤に止めていた車内で、大腸がんに苦しむ妻のひとみさん(当時41歳)を病院に行かせずに死なせた、という疑いだった。

 石川県七尾市内で小さな縫製工場を営んでいた清水さん夫婦が全財産の50万円を封筒に入れ、ワゴン車で西へ向かったのは、その年の3月5日だった。経営が悪化した工場は98年に倒産していた。借金が膨らんだあげく、金策も尽き、家賃の支払いにも事欠くような状態だった。同年11月に大腸がんの手術を受けたひとみさんは、医師から「早ければ3カ月ぐらいで再発する」と告げられてもいた。

 借金返済のために働き口を探すはずの旅は、すぐに目的のない逃避行に変わった。京都、広島、鳥取、愛知、長野、山形、宮城……。コンビニで弁当を買い、公衆トイレで洗濯した。

 借金と病気で行き詰まった夫婦の距離は逆に、22年間の結婚生活になかったほど近づいた。清水さんの備忘録に基づく手記は、明日をも知れぬふたりが心を通わせ、気持ちを重ねて、ひとつになる様子を描き出している。

 旅を始めてまもなく、「オッサン」「お母さん」と呼び合っていた妻が「これからは名前で呼んでほしいわ」と頼んだ。夫は、妻の腕のぬくもりを初めて感じ、「ふたりで観光旅行に来ているような錯覚」さえ覚えた。病気を悪化させた妻は、どんなに夫が病院へ行こうと説いても、「一緒にいられなくなるわ……」と拒んだ。

 夏からは、氷見漁港に車を止めて過ごした。後部座席に横たわる妻のおむつを取り換える。体を丹念にふく。髪を切り、くしですく。日に日に衰弱した妻は最後、薄い紫色のパジャマ姿で骨と皮ばかりにやせて、死んだ。

逃避行が残した深い傷跡

 模範的な夫とはとても言えない。結婚後も仕事に夢中で、家庭では会話がなかった。家内工場なのに、妻に仕事を任せなかった。浮気もした。清水久典さんは、妻を長く疎んじてきた、よくいがちな「日本の男」だった。

 そうした取り返しのつかない日々への悔悛(かいしゅん)の念があふれだし、妻の介護という形の「罪滅ぼし」に死力を尽くすエネルギーに変化したのだろう。

 妻を殺して、自分も死ぬ。

 妻を残して、自分は逃げる。

 妻を残して、自分ひとり死ぬ。

 作家の高山文彦さんは『死にゆく妻との旅路』の解説で、倒産と病気という苦境に際した夫婦が逃げたことで、一般的に考えられる三つの選択肢のどれもとらなかった、と指摘している。

 ただ、死や破滅はすぐそばにあったようだ。清水さんは述懐する。

 「女房が殺してくれと言ったり、一緒に死んでくれと頼んだりしたら、楽だったかもしれない。介護の睡眠不足で一日途切れがなく、ボーッとしたままそういう流れに落ちて、死んでしまっても不思議ではなかった」

♪  ♪  ♪

 それにしても、「9カ月」しかもほぼ「24時間」、狭い車内で弱っていく妻と一緒に過ごす時間の感触とはいったい、どんなものなのだろうか。

 事件を伝える新聞記事を読んだ週刊新潮の記者も、「9カ月のワゴン車生活」に想像の限りを尽くしたようだ。記者は行方をくらましていた清水さんを追い、一人娘の沙織さん(29)にこんな内容の手紙を出した。

 〈「9カ月の車中生活」という事実は、そこにどんな価値を加える必要もなく、ただそれだけで「重み」のあることです。正義感や義務感でとうていできることではない、できるはずがないことだと思いました〉

 沙織さんは、「金がないから妻を病院に行かせずに死なせた」と否定的に報道される父親像に、強く不満を感じていた。「お母さんは自分のわがままで、最後はああいう思い通りの形になって、絶対満足だったはずです」

 手紙を読み、父親に取材を受けるよう促した。その結果、10カ月後に月刊誌「新潮45」で清水さんの手記が出た。3年後には文庫本にまとまり、評判を呼んだ。事件はいつの間にか、犯罪から美談へと変わっていった。

 だが、逃避行の巻き起こしたトラブルの根は深かった。全国の見ず知らずの読者をいかに感動させようと、借金を抱えて逃げ回った男が、手を差し伸べてくれた地元の多くの知り合いを裏切り、苦しめた事実にかわりはなかった。借金総額は、自己破産したときには4500万円ほどあった。

 「自分の借金の対策を話し合う席で親類同士がケンカし、目の前で関係がバラバラになっていく。つらかった」

 地元には居づらく、編集者にも携帯電話の連絡先だけを残して、石川県七尾市を離れた。建設・解体工事などの肉体労働で汗を流し、身長160センチ、体重50キロの小柄な身体を酷使した。

♪  ♪  ♪

 3年前、七尾の隣の中能登町に戻った。雨露はしのげる一軒家だが、能登半島地震で壊れた窓ガラスはそのままで床はめくれている。家賃1万円。「わが家」というより、長く居が定まらなかった人間には、この古びた家が何よりもまず「住所」なのだった。

 「娘が声をかけてくれたから、もう一度みんなの前に出よう、腹の立った人が前に来て怒鳴ったら、頭を下げよう、ときちんと相対する覚悟ができて戻ってこられた」

 沙織さんはこう説得した。

 「地元に帰っても、お父さんが心配するほど私たちが悪く言われることはないです。住所が決まらないと、連絡が途絶えたとき心配でしかたない」

 収入は月に10万円足らずだが、近くの工場で職を得た。昨年夏からしばらく失業状態が続いたが、新しい造園関係の仕事もようやく見つかった。

 石油ストーブがともる8畳間の隅に、「釋尼妙瞳」と戒名のついた位牌(いはい)が置かれ、夫婦の記念写真が飾られている。ひとみさんの好きな色だった紫の花が絶えることはない。

♪  ♪  ♪

 「七回忌も終わり、ここに住み始めたころから、落ち着いて振り返れるようになった。死ぬ直前、ひとみは拝むようなしぐさもしてくれたし、ふたりとも納得ずくだったから、後悔はない。9カ月間に女房からもらった力で生きていくしかない。(さまざまな人の力で)生かされているんですから」

 夫と妻の物語だった本の後日談は、いまも進行している。

 こちらは、悪戦苦闘しながら「生き直し」に取り組む父とその娘の、かなり地味な物語だ。ときおり、孫2人が無邪気に登場して、還暦を迎えた男に力を与える。

〈ふたり〉

 清水久典さんは石川県津幡(つばた)町生まれ。中学卒業後に金沢市の縫製会社に就職し、71年に七尾市の工場へ転勤。スポーツウエアやポロシャツなどを作った。入社してきた11歳下のひとみさんと77年に結婚、七尾市内の市民会館で開いた披露宴では、知人のコックに作ってもらったフランス料理を1000円の会費制で食べた。翌年沙織さんが生まれた。

 課長として220人の従業員を統括したが、84年に独立し、5人で小さな縫製工場をスタート。「Tシャツ1枚のコストが170円かかるのに中国では30〜40円」というほど安価な輸入品に押され、次第に事業が悪化。連帯保証人になった知人の800万円の借金分も返済を求められるなど負債が膨らんだ。清水さんはひとみさんの死後、葬式を任せようと親類を訪ねたところで逮捕された。

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