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愛の旅人

映画「喜びも悲しみも幾歳月」

田中績と妻きよ

2008年02月23日

 福島県のいわき市街から車で東に30分も行くと、太平洋岸だ。山と海のわずかな間に道路が続くだけで、住宅はほとんどない。波が白い線となり、幾重にも押し寄せる。カモメはしきりに羽ばたくが強風のため前に進めない。

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午前1時すぎ、低気圧接近で荒れる沖合を行く船に、塩屋埼灯台は光を送り続ける=福島県いわき市で、1分露光

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観音埼灯台のフレネルレンズ。35キロ先まで光が届く=神奈川県横須賀市で

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田中春代さんは店で「喜びも悲しみも幾歳月」を熱唱する=岩手県宮古市で

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相関図

  

 海にせり出して高さ約40メートルの岩山がそびえる。岩肌に沿って急傾斜のジグザグ道が伸びる。途中で何度も立ち止まり、あえぎながら上った。頂上には高さ27メートル、白亜の灯台が天を突く。塩屋埼(しおやさき)灯台だ。

 中にらせん状の階段がある。息を整え103段を一気に上った。最上階の展望台は海面から66メートル。真っ青な太平洋が180度広がる。強い風が正面から吹き付け、息もできない。

 今は無人化されたが、かつて灯台職員は家族とともに灯台に隣接した官舎に住み、灯を守った。田中きよさんが1956(昭和31)年に手記「海を守る夫とともに二十年」を雑誌「婦人倶楽部(くらぶ)」に寄稿したとき、夫の績(いさお)さんはここの灯台長だった。

 績さんの37年間の灯台守の任地はどこも人里離れた「陸の孤島」で、生活すること自体が仕事だった。長崎・女島(めしま)は絶海の孤島。きよさんは米のとぎ汁で顔を洗い、残りでぞうきんをかけ、おしめを洗った。恵まれない生活を支えたのは「この人とならどんな苦労をしてもよい」という思いだった。

 「燈台(とうだい)の夫婦には倦怠(けんたい)期がない、とよく言われます。寂しいところで不自由の多い生活をするわけですから、頼りにするのはお互い同士です。夫と妻がいたわり合い、力をあわせていく以外に、このきびしさを超えていく方法はないのです」

 この手記を読んで感動した木下恵介が制作したのが、映画「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」だ。

 主人公の灯台守は「あの子は俺(おれ)の手でとりあげた。へその緒を切るとき、手が震えて困った」と語る。これは実話だ。次男が生まれたときは績さんが取り上げた。このとき、きよさんは「すべてが一体となったような夫への信頼」を感じたという。

 灯台が立つ岩山のふもとに、映画の主題歌を彫った黒い御影石の歌碑がある。「俺(おい)ら岬の 灯台守は 妻と二人で 沖行く船の 無事を祈って 灯をかざす 灯をかざす」

 作詞作曲したのは監督の弟の木下忠司(ちゅうじ)さん(91)だ。「撮影前の1週間で歌を作ってくれ」と兄から言われて思い浮かべたのは、陸軍船舶隊にいた戦時中に船から見た玄界灘の孤島の灯台だ。「神々しかった。あんな島で誰が灯をともすのかと思った。陸からでなく海から灯台を見たから、あの歌ができたんです」と語る。

 荒海を照らす一筋の光に一生をかけた人々の存在が、神々しさを感じさせたのだろう。きよさんは「燈台を守る人たちは、みんな純粋で力強く愛情が深いのです」と記した。

娘3人も灯台とともに

 本州の東の端は、岩手県の三陸海岸にあるとど(魚へんに毛)ケ崎(とどがさき)だ。JR盛岡駅からローカル線で宮古駅まで2時間。そこから車で40分、さらに山道を1時間歩くと、海辺の岩の上に高さ34メートルのとどケ埼灯台がそびえる。

 田中績さんが24歳のとき灯台守の初任地として自ら希望して赴任したのが、当時「最も不便な場所」と言われたこの灯台だった。そばの岩にはめ込んだ銅板にある「本州最東端の碑」の文字は、妻きよさんの筆だ。

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 この灯台の点灯100周年を迎えた02年、次女の田中春代さん(63)はきよさんの遺影を手に灯台を上った。宮古市街でスナックを経営し、店の名は「ライトハウス(灯台)」という。

 店内には灯台の絵や写真、ミニチュア、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の主題歌を歌う若山彰の色紙が並ぶ。春代さんが客の求めに応じて、「俺(おい)ら岬の灯台守は……」とカラオケで歌い出した。目を細めて自分の子どものころを思い出す。

 春代さんが生まれたのはサハリン(樺太)のモネロン島(海馬島)だった。4歳で長崎・女島に移った。家の後ろが海で、潮が引くと父親の晩酌のおかずに岩場でカキを採った。小学3年で宮崎・志布志湾の東端、都井岬(といみさき)に移った。台風のときは風速40メートルになり、窓に板を打ち付けた。馬や猿がいる場所で野イチゴを摘んだ。

 春代さんだけではない。田中さん夫妻は10人の子に恵まれ、7人の息子は会社員などになったが、3人の娘はいずれも灯台と関係した人生を歩んだ。

 長女の西原澪子(みおこ)さん(71)は灯台職員と結婚した。きよさんは手記の最後に「澪子が灯台にお嫁に行きたいといったら心から喜んであげよう」と書いたが、実際にそうなった。父が塩屋埼灯台長だった19歳のとき、赴任してきた若い灯台守と結婚し、秋田・男鹿半島の端の入道崎(にゅうどうざき)など各地を転々とした。今は熊本市に住む。

 澪子さんの名は、航行する船に水路を示すくいを指す澪標(みおつくし)からつけられた。生まれたのがとどケ崎で、績さんが産婆さんを呼びに行ったが間に合わず、同僚の灯台守の妻が雑誌の付録を見ながら赤ん坊を取り上げた。

 物心ついたときは樺太だった。父と2人で離れ小島にカモメの卵採りに行ったことを覚えている。小学3年で終戦を迎えた。その日の朝、ソ連兵が自動小銃を手に土足で家に踏み込んできた。顔を洗っていたタオルを白旗の代わりにした。

 三女の作山葉子さん(58)は今、福島・塩屋埼灯台に勤務している。見学に来る人たちの受付だ。長崎・女島の生まれで、小学2年までを塩屋埼灯台で暮らした。小学校の通学では、波しぶきがかかる海沿いを避けて山を越えた。長靴に荒縄を巻いて滑り止めとした。近くに店はなく、お金の使い方がわからなかった。

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 3人が覚えている績さんは「厳格で器用な人」だ。他人に迷惑をかけるな、が口癖だった。バイオリンが上手で、非番のときは「G線上のアリア」を、職員の家族を招いて宴会を開いたときは「船頭小唄」を弾いた。樺太時代にはれんがでかまどを作って黒パンを焼いた。子どもたちのためにアケビのツルでフラフープを作った。

 きよさんは相撲部屋のおかみのように面倒見が良かった。績さんの言うことをハイハイと聞いたが、子どものことでは自分の意見を通した。クリスマスには子どもたちに1人1個デコレーションケーキを作った。帯をほどいて子ども服を仕立てた。そのごわごわした感触を澪子さんは今も覚えている。

 灯台を守るため、樺太・海馬島で戦後に最後まで残った日本人一家となった。日本に引き揚げたのは終戦から3年後だ。子どもたちは日本語よりロシア語で話すようになっていた。

 千葉県の勝浦灯台を最後に定年となった田中さん夫妻は、塩屋埼灯台のあるいわき市に住んだ。勤務地の中で、ここが一番暮らしやすかったからだ。

 亡くなるまで約30年にわたり、ふたりは買い物も旅行もいつも連れだって出かけ、社交ダンスもふたりで踊った。晩年を両親と過ごした葉子さんは、ふたりの仲の良さを思い出す。

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 きよさんは99年に87歳で亡くなった。績さんは死の直前まで、きよさんの手を握り続けた。死後はしょげかえり、仏壇の写真に毎日手を合わせた。02年に92歳で、娘3人にみとられて亡くなった。七回忌のため3月15日、3人娘は久しぶりにいわき市に集まる。

 塩屋埼灯台は今、展示室を改装中だ。この25日には高さ2メートル近い昔の灯台レンズのほか、績さんが灯台長だった当時の田中さん一家の写真が新たに公開される。

〈ふたり〉

 海上保安庁職員の田中績さんは灯台守として、1933(昭和8)年の岩手・とどケ崎を始め、サハリンのモネロン島(海馬島)から長崎・五島列島の南西の女島に至る8カ所の灯台に赴任した。最初から夫に付き添った妻きよさんは夫の仕事を支え、10人の子どもを育てた。

 木下恵介(1912〜98)が監督した57年公開の映画「喜びも悲しみも幾歳月」では、灯台守の有沢四郎(佐田啓二)が新妻のきよ子(高峰秀子)を神奈川県の灯台に伴い、きよ子は「どんな苦労が待っていたって、必ずあなたと乗り越えてみせる」と語る。瀬戸内海の島で長男が亡くなったが、有沢は勤務のため臨終に間に合わない。長女は結婚し夫の転勤に伴い船でアフリカに向かった。有沢ときよ子は灯台に点火し、身を乗り出して手を振り見送った。

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