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愛の旅人

「そうか、もう君はいないのか」

城山三郎と容子

2008年03月22日

 中天に広がる楕円(だえん)形のガラス屋根の水が陽光を受け、緑の波紋を描く。名古屋市東区にある公園「オアシス21」。若いカップルがベンチで肩を寄せ、じっと水面を見つめる。かつてここには名古屋公衆図書館があった。

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城山八幡宮にある縁結びの古木。片思いの恋が実るように毎日朝早く祈る女の子の姿があった=名古屋市千種区で

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「海の見える家に住みたい」が夢だった。湘南の海を望む書斎

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歩いて15分の浜で、城山さんはよく泳いだ=いずれも神奈川県茅ケ崎市で

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結婚して間もないふたり

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 終戦から6年後、大学生だった城山三郎さんはこの図書館の前で「本日休館」の札を見てとまどった。そこに来た赤いワンピースの高校生が容子さんだ。城山さんは「天から妖精が落ちてきた」と感じた。連れだって歩き、映画「グレン・ミラー物語」を見る。

 城山さんの初恋だった。結婚まで考えた。しかし、男女の仲にうるさい当時、交際は親に禁じられた。1年以上たって市内のダンスホールで「奇跡的に」再会して踊り、54年に結ばれた。

 どちらか体調を崩すと、互いに寝間着のひもをつかんで眠った。城山さんは「五十億の中で、ただ一人『おい』と呼べるおまえ」と詩に書いた。46年の結婚生活で夫婦げんからしいのは、城山さんが褒章を断ったさい、容子さんが言い方をたしなめたときだけだ

 神経質な城山さんと物事に動じない容子さん。「母あっての父でした。母は父の精神安定剤。おおらかな母が不器用な父を優しく包み込んだ。お互いに脅かしっこをするなど、晩年までふたりは少年と少女のままでした」と次女の井上紀子さん(48)は思い起こす。

 城山さんと親しい評論家佐高信さん(63)は「ふたりは天の配剤だ。城山さんはみずみずしい少年の恋を最後まで貫いた。容子さんがいなければ作家城山三郎はなかったろう」と言い切る。

 それだけに容子さんが亡くなったとき、城山さんはうろたえた。葬式に行かないと言い張った。式場に無理に連れて行こうとすると、靴を左右ではき違えた。墓参りにも行かなかった。妻の死を認めたくなかったのだ。

 最後の小説『指揮官たちの特攻』は容子さんの死でテーマが変わった。水上機で特攻した兵士を描く予定だったが、主人公を変え、残された遺族の哀(かな)しみや消えない後遺症を書き込んだ。

 01年、容子さんが夢枕に立ったのを機に、思い出をつづり始めた。城山さんの死後に未完の原稿を集めたのが『そうか、もう君はいないのか』だ。新潮社の編集者楠瀬啓之(くすのせ・ひろゆき)さん(41)は「文章が若々しくなった。格闘のあとがありありだった」と言う。

 楠瀬さんが一読して思ったのは「この原稿を書いている間だけは容子さんと一緒にいられる」という城山さんの心情だ。だから城山さんはいつまでも書き続けたかっただろう。「この作品は完成しない運命だった」のだ。

 容子さんの死から7年後に城山さんも逝った。最後の言葉は「ママは?」だった。死に顔は斜め上を見て、幸せそうな表情だ。「お母さんが迎えに来てくれたんだね。よかったね」と、紀子さんは思わず声をかけた。

 きょうは城山さんの一周忌である。

書斎の隅に残る心の面会場

 早春の海から照り返す日差しがまぶしい。神奈川県のJR茅ケ崎駅前のマンションの10階から望む相模湾はキラキラ光る。ここは城山三郎さんの仕事場だった。窓から見える風景を城山さんは「海は平らで巨大な発光体になって、横滑りしていく。黄金にまぶされて海が動いていく」と表現した。

 10畳ほどの書斎に大きな机があり、城山さんは海を正面に見てイスに座った。机の上もわきのテーブルも本や手紙が山積みだ。『そうか、もう君はいないのか』の原稿は、この部屋のあちこちに分散していた。

 図書館で出会ったとき城山さんは容子さんを勉強好きだと感心したが、実は容子さんは運動会をさぼって時間つぶしに来たのだった。亡くなる前年、精密検診でがんとわかった容子さんは「ガン、ガン、ガンちゃん ガンたらららら」と明るく歌いながら帰って来た。城山さんはあきれながら「大丈夫だ、おれがついてる」と抱きしめた。こんなエピソードがつづられる。

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 城山さんの机の後ろの棚に、ほほえむ容子さんの遺影が置いてある。その前には男女の天使がろうそくを掲げ、ふたりの旅行の思い出の品が並ぶ。「ここは父の心の面会場。ここで父は、母が生きてるときと同じように会話していたのでしょう」と娘の井上紀子さんは推しはかる。

 本棚に並ぶ城山文学の多くを手がけたのは、城山さんと半世紀にわたるつきあいをした新潮社の元出版部長、梅澤英樹さん(74)だ。「人生の雑事は奥様がすべて引き受け、口べたな城山さんを補った。ふたりはまるで母親と息子だった。奥様の死後、城山さんは気力も体力も急速に衰えた」と語る。

 城山さんの代表作『落日燃ゆ』のタイトルを考え出したのは梅澤さんだ。城山さんには別の案があったが、「あなたの作品の中で一番いいタイトル」という容子さんの一言で決まった。

 そもそも城山さんに筆一本で生きる決意をさせたのが容子さんだった。56年、同人誌に戦争体験を書いた最初の小説『生命の歌』は仲間からは不評だったが、容子さんは「泣けたわ」と言った。「その一言で、自分の気持ちが固まった」と城山さんは語った。

 写真で見る容子さんはふっくらとしている。句作が趣味で「立春や裏側リオのカーニバル」など破天荒な句を詠んだ。俳句仲間で親友の水野君枝さん(73)は「お嬢様がそのまま奥様に育ったような感じ。落ち込んでも、それを人前では見せなかった」と言う。

 城山さんはよく夫妻で旅行し、手帳などに俳句を書き付けた。「窓の灯が川面に語るこの一年」と城山さんが細い字で書いたあと、容子さんが「年重ね聖夜を語る夫婦かな」と太い字で続ける。ぴったりと身を寄せて書き込む姿が、筆跡から目に浮かぶようだ。

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 茅ケ崎の書斎は家族の聖域だが、城山さんの仕事ぶりを目にできる場所がある。名古屋市東区の「文化のみち二葉館」だ。城山さんが寄贈した段ボール300箱、2万点の資料をもとに、茅ケ崎の旧宅の書斎を再現した。ここで23日まで城山三郎展が開催中だ。

 小学生時代の日記、学生時代の詩集など初公開のものもある。その中に城山さんの文学の恩師だった英文学者、小林歳雄の資料があった。脊椎(せきつい)損傷で30年間寝たきりだった彼は戦後、軍隊から帰った城山さんに英語を教えた。それもいきなり原書を読ませた。

 城山さんの寄贈した本の中には、小林さんの妻で歌人の玲子さんの歌集があった。「たたみの上に雨の降る家貧乏を屁(へ)とも思はぬ君に嫁ぎ来つ」と、あえて貧窮の学者に嫁いだ心を歌う。

 二葉館の副館長西尾典祐さん(51)は「学問に対する真摯(しんし)な姿勢を、城山さんは小林さんから学んだ。孤立を恐れない小林さんの生きる姿勢は、城山作品の主人公の原型です」と指摘する。

 城山さんは名古屋の文学仲間と読書会「くれとす」を結成し、ひんぱんに勉強会をした。04年までちょうど50年、300回に及ぶ。ビールを飲みながら、つかみ合いのけんか一歩手前の激しい議論を戦わせた。それが城山さんの次の作品に生きた。

 名古屋市東区の英文学者国司(くにし)通さん(83)はその仲間だ。私が訪ねた日が国司さんの亡き妻の命日だった。「先立たれて寂しく、ひと思いに飛び降りて死にたいと思ったことがある。『そうか、もう君はいないのか』は、私にとっても実感ですよ」とつぶやいた。

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 城山さんのペンネームの由来となった城山の八幡宮の境内に「連理木(れんりぼく)」がそびえる。いったん分かれた幹が再びつながるため、縁結びのご神木となった。目の前で若い男女が手をつないで幹の周囲を回った。この2人もいつか同じ思いにとらわれるのだろうか。

〈ふたり〉

 作家の城山三郎さん(本名・杉浦英一)は名古屋市に生まれ、第2次大戦中は理工系学生で徴兵猶予になりながら志願して海軍に入隊した。戦後は東京商科大学(現一橋大)で経済学を学び、愛知県岡崎市の愛知学芸大学(現愛知教育大)で景気論などを講義した。1957年に『輸出』で文学界新人賞、59年に『総会屋錦城』で直木賞を受賞。63年から作家に専念した。ペンネームは名古屋市の城山に3月に引っ越したのが由来だ。元首相で戦犯として処刑された広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』で75年、吉川英治文学賞などを受賞した。

 容子さんがデパートの秘書課に勤務していたときに再会し、結婚。城山のあと神奈川県茅ケ崎市に移った。容子さんは00年にがんのために死亡。城山さんは07年に肺炎のため亡くなった。

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