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「何もない」天空の静寂 本沢温泉(長野県)

2008年6月13日

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写真山行の疲れを癒やしてくれる「雲上の湯」。八ケ岳の絶景が気分もほぐす=南牧村海尻地図【所在地】南牧村海尻【交通】 車で八ケ岳林道などを経て本沢入口の駐車場、そこから徒歩約2時間。小海線松原湖駅からバスで終点下車し、登山道を徒歩約3時間半。【泉質】硫酸塩泉、炭酸水素塩泉

 切り立った八ケ岳は、青みがかった表情を見せたかと思うと、ふいに深い森の中に姿を消す。太古の面影さえ残るコメツガやシラビソの原生林を、歩き続けた。いったいこの森は私を解き放してくれるのだろうか。遠く近く、カッコウの声がこだまする。5月末の山の空気はいまだ冷たい。

 ふと見ると携帯は圏外を示している。この小さな機械に日常を縛られる自分がこっけいに思え、電源をオフにした。

 静寂な時間が過ぎる。登ること2時間、硫黄岳の山懐にある本沢(ほんざわ)温泉がようやく見えた。

 内湯のある宿から5分ほど登った「雲上の湯」は、硫黄岳を刻む渓谷にあり標高2150メートル、日本有数の天空に近い温泉だ。底から沸く青灰色(せいかいしょく)の湯が、露天の湯船を満たす。見ると男性がぽつんと一人、湯につかっているだけ。私も無心になって体を沈めた。

 白く細い渓流が脇を流れ、やがて千曲川へと注ぎ込む。振り向くと硫黄岳の岩壁、青空が高い。湯から上がり、木陰の残雪を顔に当てると、ほてりがすっと引いた。

 厳冬期以外、本沢温泉に住み込んで宿を手伝っているという20代の女性がいた。ファッションやブランドに一番関心がありそうな年頃なのに、この場所にいることが不思議に思え、その魅力を尋ねた。すると一言。

 「何もないところ」

 飾らないその答えが、むしろ心に響いた。モノにあふれかえり、求めてやまない今の暮らしを、ふと省みた。

 車の横付けは当然、豪華さを競う温泉施設が多いなか、山行でしかたどり着けない本沢温泉は、まさに秘湯の名にふさわしい。

 街の喧騒(けんそう)から離れたくなったら八ケ岳の山旅に出かけよう。「何もない」というぜいたくな時間が、ここに流れているから。(考古学研究者 堤隆)

     ◇

●本沢温泉 1882(明治15)年開業の一軒宿。「雲上の湯」(600円)のほか、内湯は「苔桃(こけもも)の湯」(800円)がメーンで、冬季のみ「石楠花(しゃくなげ)の湯」(600円)を利用。1泊2食付き8300円(入湯税別)から。周辺にはニホンカモシカやヤマネなどが生息。高山植物のハクサンシャクナゲは7月中旬から見ごろ。電話(090・5446・1205)。

●八ケ岳 主峰の赤岳(2899メートル)をはじめ、阿弥陀(あみだ)岳、硫黄岳、権現岳など8座からなる連峰。登山ルートや山小屋は多数。電話野辺山観光案内所(0267・98・2091)。

●JR小海線 山梨県・小淵沢駅と長野県・小諸駅を結ぶ単線の高原鉄道。野辺山駅(1345メートル)は日本一の高所駅。昨年、ディーゼルエンジンに蓄電池を組み合わせたハイブリッド車両が世界で初めて導入された。

     ◇

(2008年6月10日、朝日新聞マリオン欄掲載記事から。商品価格、営業時間など、すべての情報は掲載時点のものです。ご利用の際は改めてご確認ください)

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