「ハマるなかれ」茶壺の世界(下)
中国茶評論家・工藤佳治
――取り巻く「魅力」「魔力」とは
「茶壺」にハマるもう一つのタイプは、溺愛(できあい)し、のめり込む人たちである。
不思議な魅力が「茶壺」には存在するようだ。高じると、いつくしむように、「茶壺」に愛情をそそぎ、「養壺」という行動に出る。「養壺」とは、字のとおり、「茶壺を育てる」ことである。
台湾は、現代茶藝のスタートの地であり、お茶好きは「工夫茶」でお茶を飲むことに、精神性も含め何よりの充実感を見いだしていた。また、台湾のお茶は、十数年前までは、強く焙煎(日本のほうじ茶を想像していただくとよい)が主流であり、このタイプのお茶は高温で焼かれた「茶壺」でいれるとおいしく飲むことができたこともあって、茶壺は茶道具の主流としても使われていた。茶藝で「茶壺」を使うことが多いのは、そのようなお茶が主流であった時代のなごりでもある。
そんな中で、使い込んだ「茶壺」は、なんともいえない黒いツヤが出て、器としての深み、美しさを増してくる。そこで「養壺」、茶壺を育てることを趣味とし、仲間を呼び、育てた子供を見せあい、自慢しあうようになっていく。あるいは、一人静かに眺め、時にはニヤニヤしながら眺める、という人も多い。まさに我が子を育てるが如く、である。
登場するのは、「刷毛」というより「筆」や布。出がらしの茶葉で入れたお茶(もちろん普通にいれたお茶でもかまわないのだが)を、筆を使って茶壺にまんべんなく塗っていく、あるいは布で磨く。ひまをみつけては繰り返す。あるいはそのために時間を作ってまで繰り返す。
その結果、茶色で光沢がなかった茶壺が、黒さを増し、光を帯びてくる。気品のある光を放つ「茶壺」ほど、骨董品のような価値をもって、マニアの間で取引されることもある。
まさに、「おたく」のような世界だが、美術品愛好家が、毎日、壺を磨いては眺め、磨いては眺めしているのと同じである。
「養壺」をせずに普通に使用していても、長年使い込んだ「茶壺」は、独特の光と魅力を秘めて迫ってくるように感じる。少し色むらができたりすることはあるにしてもだ。
そこに目をつけたのは、ニセモノづくりの人々。古く見せるための独自の手法を駆使し、高く売る。骨董品の世界と同じである。
写真にあるのは、私が「ニセモノ」と知りつつ、あまりの出来のよさ、魅力に惚れて買ったものである。買った場所は、香港の骨董街「キャットストリート」から少しはずれた小さな骨董品店。店の主人は、明代の茶壺であるという。値段は、10年ほど前で約1万円。当時のこの手の新品であれば、せいぜい2000円も出せば手に入る品である。
主人に「3000円でどう?」と持ちかける。手間賃だけは上乗せして買おうと思った値段である。「ダメ!」と主人。通常の骨董品屋の主人であれば、6000円から7000円程度で売ってくれるものである。ところがこの主人、がんとして値を下げない。次第にこちらは、あまりのニセモノの出来のよさに、ニセモノの逸品として今買っておかないと、これだけのニセモノは手に入らないのではないか、という気持ちになってきた。そして、主人のいう値段、しかも違う形のもの2種類を買ってしまった。
ニセモノづくりは、茶壺の中に茶渋をつけるために、墨を使って塗りこんだり、外の古さ、独特の光沢を出すために土の中に入れて数年おいたりする、といわれていた。本当かどうかは定かではないが、大抵の場合、墨は擦ったり、お湯をいれたりすると、落ちてくる。土に入れた場合も、独特の光沢がどこか違う。
ニセモノと知りつつも、その技量、美しさに惚れて買った私もまた、「養壺」はしないが「茶壺嫌い」ではなさそうだ。
次回は、「みんな飲んでいるペットボトル烏龍茶=その誕生に迫る」を。
(07/06)
中国茶メモ
●おいしくはいる紫砂茶壺の選び方
(1)小さくシンプルな形、装飾のない形で、自分が気に入ったものを選ぶ。(装飾がほどこしてあるものは、観賞用、美術品としてはよいが、お茶をいれるには向かない)
(2)大きさは、自分がよく使う茶杯の数にあわせた分量のお湯が入るくらい。極端に小さすぎるものは、おいしく出づらい。
(3)買うときには、蓋を持ち、胴体の部分に軽くぶつけて金属製のかん高い音がするものがよい。要するによく焼きしめられていることを知る。胴の部分は、叩く場所によって音が違うので、いろいろの箇所をためしてみるとよい。
(店の人が叩くのを嫌がるかもしれないが、そういうというところでは買わない方が賢明。硬い土なので、力いっぱい叩かない限り、まずヒビも入らないし、割れることもない。もし割れるようならば「せっ器」とはいえず、粗悪品。品質に自信があれば、こちらのしぐさを見て、たいてい店の人は「こんなによい音」といわんばかりにやってくれるはず。)