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「杭州湾海上大橋完成」のニュースは小さかったが

2008年05月20日

中国茶評論家・工藤佳治

――お茶は「寧波」から日本へ伝わった

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 5月1日。日本の新聞では、ごくごく小さく、ほとんど注目されないニュースが載った。「杭州湾海上大橋完成」の報道だ。私にとっては、「お茶の日本への伝来」などを考えると、特別の思いになる。

 上海は、南側に大きな湾があり、深く内陸へ窪んでいる。湾の一番奥は、お茶の中心地でもある浙江省杭州。この大きな湾が「杭州湾」である。

 この湾を挟んで上海の向い側の都市が「寧波」である。遣唐使の時代から、日本との行き来の窓口となっていた港である。この寧波と、上海の西隣の町「嘉興」までの海上36キロを、橋を架けて結んだのである。海上の橋としては世界一。

 今までは、上海から寧波に行こうとした場合、高速が出来たとはいえ、ぐるりと湾を廻り、4〜5時間はかかっていた。それが、大幅に短縮された。省別GDP中国一の浙江省は、これでまた豊かになる要素が増えた。寧波の南には、プラスチック成型製品生産においては、世界の工場でもある「温州」といった都市もある。日本の100円ショップも、この都市に支えられている。

 寧波は、古くからの日本との窓口の港町。偏西風の関係で、ここを船出すると、北九州へ着きやすく、そこから瀬戸内へも入りやすかったという。鑑真もこの港を日本へ向けて出帆したが、嵐で流されたことがあるのはご存じのとおりである。

 アヘン戦争で清が敗れ、上海などとともに開港された町でもある。上海はその時は、人口数千人の寂しい漁村。寧波は大きな港町であった。ヨーロッパとの行き来も活発になり、中国でも有数に大きく美しい教会が、写真にあるように今でも残る。

 日本へのお茶の伝来は、中国から。鎌倉時代の僧・栄西が茶の種(木)を持ち帰り、植えた。また飲み方も伝え、『喫茶養生記』を著した、と歴史で習った方も多いだろう。この栄西も、天台山で学ぶため、寧波に入り、そして帰国した。中国では、宋の時代。お茶は、今でいう抹茶の飲み方であった。

 初めて日本にお茶を持ち帰ったのは、もっと古く遣唐使でもあった最澄である。最澄も寧波に上陸し、天台山に学んだ。日本にお茶を持ち帰ったが、定着することはなかった。

 日本の茶道のもとになったといわれる中国の禅寺での茶事を、日本に文献として伝えたと言われるのは、京都・東福寺を開山した聖一国師。博多の寺院の僧であった彼は、日本に帰化していた中国貿易商のスポンサーを得て、徑山寺(浙江省)に学び、禅寺でのお茶の様式を持ち帰った。彼もまた、寧波に入り、日本へと戻った。

 中国仏教四大名刹の一つ普陀山は、寧波の沖に浮かぶ島。「普陀佛茶」という銘茶が今でも作られる。ここの開山のきっかけとなったのは、唐代の日本人僧・慧顎。寧波から五台山(山西省)に学び、観音を日本に持ち帰るため寧波を船出した。しかし嵐で船は進まず、観音が中国を離れることを嫌っていると考え、その観音を寧波の沖の島に祀った。それが普陀山の開山とされる。

 日本へのお茶の伝来は、この寧波が中国側の窓口であった。

 お茶だけではなく、古く中国からの文化の風は、寧波から日本へ新鮮に吹きそそがれていた。

 寧波は、現在でも中国有数のコンテナーターミナルを持つ大きな港町である。この海上大橋の完成で、北と南の陸上輸送が活発化することになり、寧波はまた発展することになる。

 遣唐使たちは、ここに上陸して、遠く都・長安(現在の陝西省西安)、僧であれば五台山などを目指した。徒歩であったのであろうか。数カ月を要したかもしれない。

 今、その距離はまた縮まったのである。

 次回は、「また新茶の季節が来た」(予定)です。

中国茶メモ

普陀佛茶(ふだぶっちゃ・浙江省)

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 寧波の沖合いにある島、中国仏教四大名刹の一つ・普陀山がある。そこでは唐代からお茶が作られていた、と伝えられる。普陀山は、日本人留学僧・慧鍔が開山のきっかけを作ったといわれる。広く世界中の華僑にも信者が多い。

 少し黒みを帯びて湾曲した緑色の茶葉。白毫もまじり、産毛が多い。

 爽やかな飲み口で、丸みがある。爽快感があり、甘い香りが残る。日本人にもなじみやすいお茶である。

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