2008年4月23日
実は、アトランタオリンピックの前に、私は、全日本の監督をやめようと思っていたことがある。今では考えられないことだが、当時は大学の監督と全日本とを兼ねていた。両方やっていくには限界があった。それに、息子の障害の問題もあった。
当時、息子のことに関連して、女房と一緒に年に1回ぐらい相談に行く先生がいた。この先生は柔道については何にも知らないが、私が行くと、いつも笑顔で、貴重な話をしてくださった。
オリンピックの前だった。「私、アトランタオリンピックが終わったら全日本の監督をやめます」と言ったところ、普段は温厚な先生の顔色が変わった。
「山下さん、あんた、わがままだね。自分のことしか考えてないね。想像するところ、あんた、次の指導者は育ててないね。あなたはやめればそれで済むだろうけど、あなたがやめたら、日本の柔道界は大混乱する。困るだろう。あなたは自分のことしか考えてない」。
それで、けんかを売るように私は言い放った。
「ああ、そうですか。じゃあ、アトランタオリンピックで惨敗したら、どうしたらいいんですか」。
すると、非常に厳しい言葉が返ってきた。
「アトランタで惨敗したら、山下さん、あなた、針のむしろに座りなさい。針のむしろに座って、死に物狂いになって、次の指導者を育てなさい。半年かかってもいい。1年かかってもいい。あるいは2年かかってもいい。死に物狂いになって育てる。そして、もうこれで自分が辞めても、あとはうまくいくと思ったときに、アトランタオリンピックの責任をとって辞任しなさい。それが上に立つ人間の責任のとり方だ」
一言も返す言葉がなかった。
アトランタは、思ったほど悪い結果ではなかった。全日本柔道連盟からはあと4年やってくれと言われた。女房に相談したら、「お父さん、みんながそう言われるのなら、あと4年間やったら」。この一言で、私は、これを受ける決意をしたが、それから2年間、ことあるごとに、シドニーオリンピックでやめるということを私は口にした。
シドニーまでの4年間で目指したものは、ただ単に強いだけの選手づくりではない。最強の選手づくりじゃなくて、最高の選手づくりであった。
そして、シドニーが終わって、辞表を持っていったとき、一言も慰留の言葉はなかった。実にすがすがしい気持ちで、その職から離れ、後任の監督にバトンタッチできたことは、今でも非常にうれしく思っている。
そして、2001年から、私に新しい役割が回ってきた。柔道ルネッサンス活動である。もう一度、柔道創設者・嘉納治五郎師範の理想の原点に返って、柔道を通した人づくり、人間教育を大事にしていこうという内容だ。
この話をすると、いろんな人が「すばらしい。さすが柔道界だ」と言われるが、全然そうではない。ほんとうに柔道人のモラルやマナーが地に落ちて、勝つことばかり考えてるようになった。選手だけじゃない、指導者だけじゃない、関係者、応援の人まで、みんなマナーが悪い。
日本のスポーツ界が勝利を求めることは大事だけど、一方で、今のいじめや青少年の健全育成など、いろんな問題に対して、スポーツを通した人づくりをもっともっと大事にしていけば、スポーツが世の中を変えていくこともできるんじゃないかなと思っている。
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