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肉まんの郷愁

2007年06月15日

文・写真 于 前

 私が幼い頃、西単に肉まんを売る国営の専門店「慶豊包子舗」があった。肉まんは、皮で肉を包むから色んな方法で味をごまかすことができるのだが、慶豊包子舗の肉まんは正真正銘。ごまかしがなかった。北京の人々の間で、その味の人気は絶大だった。

 肉も特別な券を使わないと買えない時代だった。当時は、この肉まんをおなかいっぱいに食べられるような生活は人生の理想だと思っていた。

 それから、しばらくしてお金さえあれば、何でも買える時代がやって来た。すると、幸せを感じる気持ちも鈍くなってきたようだ。北京に帰るたびに時代の変化が生み出した価値観にいつも飛ばされそうな気持ちになる。

 「どうしてそんなことを考える暇があるの?」
 何でも懐かしそうにしゃべる私を見て友達のMさんが言った。彼女は35歳。出版関係の会社を経営するバリバリのキャリアウーマンだ。中国では出版業はまだ開放されてない、可能性が大きな市場。彼女のように、いつか本格的にビジネスの世界で戦ってみようという野望を持つ人間にとっては、打って付けだ。

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 昨年1カ月、北京に滞在した時のことだ。私は誘われて、彼女の会社が出版する本の編集チームに入った。最初は写真を提供するだけと気軽に思っていたが、ここで「今の時代」を考えさせる様々な側面を垣間見た。

 彼女の会社はガラス張りのビルの中にある。初めてオフィスに入った日、自分は17年間中国を離れて生活していたのだと、痛感した。

 左足を会社のゲートに入れた瞬間だった。突然、Mさんの大声が耳に飛び込んできた。このまま入っていいのか、逡巡していると数秒後、続いて「今月の給料は全員20%カット!」という怒鳴り声が響き渡った。
 おそるおそる、室内を見渡した。若い女性が全員、無表情のまま立ちつくしている姿が目に入った。

 「本当に全員の給料をカットするのかしら?」。私には関係がないとはいうものの、彼女の怒りの迫力に圧倒されて、心臓がどきどきした。

 しばらくすると、社外ライターたちも集まってきたので、社員たちは無言のまま、自分の仕事場に戻った。

 編集会議が始まった。まず、Mさんが発言し、その後、一番年上とみられる60歳代の男性が話し出した。

 話は中国の政治情勢から、今の時代が必要とするもの、共産党の立場、我々の責任・・・と多岐に及んだ。外国に住んでいた間、決して耳にしなかった硬い単語の連続に、私はじっと座っていられなくなった。目を閉じて我慢しようと自分に言い聞かせた。ところが、横目で他の人をちらと見ると、退屈な表情を見せる人は誰一人いなかった。

 長い編集会議が終わった。Mさんが近くに来て、話しかけてきた。私の疲れ切った表情をみて、「本を出す時には審査を受けないといけない。そのときに必要だから、こうした話は無駄じゃないですよ」と諭された。

 その後、彼女と一緒に食事する機会があったので、あの日のことを思い切って質問してみた。
 「本当にみんなの給料をカットするの?」「そんなに簡単に人を解雇できるの?」「会社には党の支部があるの?」
 続けざまの質問に、彼女は謎の表情を浮かべながら一言。
 「会社の若者にそんな話をしないでね」

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 彼女の会社には80年代に一人っ子政策で生まれた「80代」と呼ばれる新人類が多い。大切にされて成長した分、どうも管理しにくいらしい。
 助手のTさんもその「80代」の一人だった。全く化粧をしないので、逆に目立つ存在になっている。仕事場で屈託なく自分の恋愛話を話題にする。彼と大学で出会った話。いまも仲が良くひとときも離れられないという話。「お前はまるまるして可愛い、と言ってくれるんです」と、こちらが赤面するようなおのろけも平気だ。これが新人類というものか。私はうなった。

 だが、彼女のこのパワーが会社を明るくしてくれていることに次第に気がついた。社長であるMさんの前でも調子の良さは変わらない。
 「社長はあまりに美人。私の友達、そんな超美人の社長に会いたいと言っているんですけど」

 人間って不思議だ。歯が浮いたようなほめ言葉なのに、それを聞いたMさんの表情がヒマワリのように明るくなった。
 やはり成功している女性だから、男性に褒められるよりも、近くにいる女性に褒められた方が安心できるのだろう。

 一カ月も一緒に仕事をするうちに、社内でTさんの存在は特別なものになってきた。どれぐらい本気で人を褒めているかは重要ではない。繰り返し、Tさんの言葉を聞いていると、当たり前のように聞こえてくるから不思議だ。Tさんの底抜けに明るい声が聞こえない日があると、何だか寂しい気持ちになってしまうほどになった。

 先日、Mさんから連絡が来た。Tさんが博士号を取りたいからという理由で学校に戻ったのだと言う。泣きながら会社を去ったとき、みんなも思わず涙ぐんだほど、職場の人気者になっていた。

 ところか1カ月後。驚愕の事実が明らかになった。なんとTさん、学校に戻ったのではなくライバル会社に移ったのだという。

 狭い業界。どう考えても転職は簡単にばれる。どうしてそこまで嘘をついて辞めたのか。理解できない話だ。

 Mさんもこれで疑問を感じ、Tさんのことをさんざん調べた。すると驚くほどの嘘が次々に出てきた。有名な大学で勉強しているという話も真っ赤な嘘だった。

 この話を耳にした時の私のショックは計り知れない。Tさんの口はパレットだったのか。口から出る言葉に合わせて、自分の想像通りの色を作って絵を描いていたのだろうか?

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 中国では空中を猛スピードで滑走していくような生き方をする人が増えたのだろうか。自分の神経がもう少し、図太ければ、こんなショックを受けることはなかったのか。

 昔の懐かしいことを理想化してしまい、郷愁にこだわってしまうのは、私の神経が多分、細過ぎるからなのだろう。

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