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大都市・北京の変貌

2007年08月13日

文・写真 于 前

 何年か前、日本人の女性と2人で夏の京都を訪れたことがある。祇園まつりの最中で、私の目には何もかもが新鮮に映った。特に祇園界隈の雰囲気は素敵だった。別の町なら決して立ち止まって見ることがないような道ばたの植物や花まで細かく観察してしまったほどだ。

 だが、残念に思ったことがあった。ビュンビュンとスピードを出して走り抜ける車の存在だ。
 これには、一緒に旅をしていた日本人の女性の方が私よりも不満そうな表情だった。
 「祇園の道でこんなに車を走らせること自体、おかしなことよ」。
 怒ったような表情で私に思いをぶつけた。

 一番良いところを外国人の私に見せたいという気持ちに加え、故郷に対する期待も入り混じっていたのだろうと思う。

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 確かに私も日本人の友人と中国へ行く時によく似た場面に出会う。数年前のことだ。上海で広告の看板を見た時、本当に怒りがこみ上げてきたことを思い出した。この時は一緒にいた日本人にくどくどと不満を述べた。

 「この180軒の住宅は少数の人たちだけのもの」
 街の大通りに派手に描かれた住宅の広告だった。
 短い宣伝文句だが、私にはめまいさえ感じさせる内容だった。

 「少数の人たちだけのもの? ならば、その他大勢の人たちや、この都市そのものも、存在する意味がないということなの」
 日本人の友人は怒った私の顔を見て、頭を振って、「気にしないで」と不思議そうな顔をした。

 上海だけでなく、北京に帰っても同様の広告をたびたび目にした。「奢侈」(ぜいたく)などだけではなく、「外交官の大家になろう」など、各国の大使館が置かれている北京らしい広告もあった。まるで平凡であることを軽蔑するような都市のまなざしを見て、私は深くため息をついてしまった。

 2007年の北京は一言でいうなら、まるで都市が美容整形を受けているような感じで変貌を遂げようとしている。この先、どうなっていくのか、見えないところも沢山ある。その変化を自分の目で確かめられることはある意味では一種の幸運でもある。

 このような広告を見て、家を買えない人たちはどのような気持ちになるだろう。その後、こうした拝金主義の広告に疑問を感じる人は私だけではないことが分かった。
 金持ちを誇示するような広告は中国社会の調和にふさわしくないとの理由で、北京市当局が動き出したのだ。刺激的な内容の広告を全部外し始めた。

 「拝金主義の広告が貧しい人たちを刺激するので、全部はずしたのだ」
 私はこう思わざるを得なかった。だが、こうした風潮をすべて広告のせいにすることの方が滑稽に思えた。広告を外せば貧富の差がなくなるわけではないだろう。本質は何も変わってない。広告以外に隠された現実を変えようとする動きの方が価値あることではないか。

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 今年の春、北京の胡同で写真を撮っていた時、私はまた不思議な光景を目にした。胡同の建物の壁に派手な日本女性の絵が描かれていた。近くに様々な人種の人々が踊って、笑っているという絵柄だ。ひょっとしたら日本びいきの人が描いたものなのだろうか?
 普段の私なら必ず中に入って、どうしてこの絵を描いたか、その理由を知らないと気がすまないのだが、あまりにも違和感を持ったせいか、一歩を踏み出す勇気が起きず、その場から逃げるように走り去った。

 平和な日々の中できれいになろうとする北京。今、たくさんの奇妙なできことが起きて、大都市が街角の隅々まで変貌しようとしている。

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