魔法の小箱2007年10月03日 半年ぶりに北京に戻って飛行機を降りたら、北京空港のすべての入国審査窓口に見たこともない小箱が置かれていた。これが、いろいろな場所と人に大きな「変化」をもたらしている、「魔法の小箱」であることが後に分かった。 小箱は中国らしいユーモアをもつ、優れた道具だった。 ボックス形の箱に四つのボタンが取り付けられ、「非常に満足」「満足」「待ち時間が長すぎる」「態度が良くない」に分けられている。 「非常に満足」は大きく口を開けて笑っている顔、「満足」は普通に笑っている顔、「待ち時間が長すぎる」は不満そうな顔、「態度が良くない」は怒っている顔、というわけだ。 たとえば、満足なサービスを受けたと思った人は、そのボタンを押すと、「普通に笑っている」イラストの画面が点灯する。結果は大切な情報として電子システムによって管理者に届くという仕掛けだ。 後で調べたところ、この小箱、「旅客満意度電子評価係統」というものだった。 オリンピックを迎えるため、様々な人々が様々な知恵を絞って頑張っているのだ、と感動した。 自宅近くの中国人民銀行にも同じような小箱が置かれていた。効果は絶大だった。実際に、設置後は銀行員の態度が大変よくなったのだ。この小箱に感謝の気持ちを抱かざるを得ない。 ある日、タクシーをチャーターした。しばらく走るとタクシー運転手が私に話しかけてきた。 「早くカメラを手にして、外の景色を見てください!」 職業的な反応で、言われた瞬間にカメラのシャッターを押してしまった。 「早い! 早い! まだ早い! もう少ししてから撮って」と運転手。 私は運転手の意図をやっと理解した。 ――その景色って、いま建設中の中央テレビ局の建物のことですか? 運転手は笑いながらうなずいた。 この建物、目の前まで近づくと倒れてかかってくるように見えるため、北京っ子間の中で「変な建物」と話題になっていることは知っていた。 噂は本当だった。まるで魔法だ。タクシーで進んで行くと、確かにビルが自分の方に倒れかかって来るように見えてくる。 ――どうしてこんな建物を作るのかしら! 「倒れるために作ったのでしょう。でも、どう見てもズボンに見えますよね! 毎日ながめて、いつ倒れるか、楽しみにしていますよ」 運転手の笑い顔を見て、私も情けなく笑った。 しばらく走ると運転手がさらに大笑いした。 「天安門で降りたいのでしょう? 待ち合わせ場所を鉄製ナベの近くにしましょうか」 ――ナベ? どこのナベ? 「クアズ(ヒマワリの種)を炒めるナベですよ!」 ――国家大劇院のことですね! でも、ピータンにも見えますよね 「ピータンなら、醜くて食べられないピータンになるでしょうね」 私は運転手の発想に感心し、笑いが止まらなくなった。 タクシーは「ナベ」の前で止まった。こんなに近くで国家大劇院を眺めたのは初めてだった。 太陽の反射光で輝く建物は、遠く宇宙空間に浮かぶ異次元の物体、といったところだ。360度の反射面、巨大な球体…。存在感はたっぷり。確かに北京の景色を見慣れた市民の視線にブレーキをかける力を持ってはいるが…。 しばらく立ちつくし、無表情になった私を見て、運転手が話しかけてきた。 「どうみても凄いでしょう? UFOからのプレゼントです。何か大事件があったら、北京市民をこの中に隠せばいい。絶対安全だ」 陽気な運転手の声を耳に、北京の再開発の最前線を見つめながら私は価値観の混迷を感じた。 何年か前、天安門広場の近くに変わった建築物が建つという噂が広がったことがある。その時、私はそんな建築物をデザインする人に大きな関心を抱いた。その建築家は、ライバルとなる多くの建築家を勝ち抜く力を持っており、中国政府を説得する力量や素晴らしい心意気を兼ね備えているはずだ。そう思って、成り行きに大きな興味を抱いていた。 だが、建築物は一度作ったら、なかなか壊せない。噂に過ぎなかった建物はいまや現実のものとなり、私の目の前にそびえ立つ。 私は「北京人」としての責任を感じた。この建物に対する市民の意見はどこまで届いているのだろうか。 目を閉じると、空港と銀行で見た「小箱」がまぶたに浮かんできた。 私は自分の妄想に噴き出してしまった。 目の前に巨大なボックス型の機械が飛来し、国家大劇院の上に浮かんでいる。建築物を評価する「大箱」だ。箱はすぐそこに見えるのだが、ボタンを押したくても、手が届かない。もうちょっと、もうちょっと、と背伸びをしても届かない。どうして?… |