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雲上の釣魚台

2008年3月18日

  • 文・写真 于 前

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 北京の街の景観が昨今、すさまじい速度で変貌し、市民の生活や経済がめまぐるしく変化していることはこれまでに何度も書いてきた。こうした出来事は確かに驚きの連続だったが、中国人である私にとって、比較にならないほど驚愕だったことがある。釣魚台(ちょうぎょだい)国賓館の一般開放である。

 中国政府の迎賓館である釣魚台は外交舞台の中心だ。毛沢東や周恩来など共産党の指導者が住居したこともある、一般の中国人にとってはいまだに神秘のベールに包まれた存在だ。昨年、仕事で北京に帰った時、この釣魚台国賓館で1泊することになり、本当に戸惑った。

 釣魚台は東京ドームの10倍といわれる広大な敷地に7万平方メートルの湖を有し、森と湖に囲まれた美しいエリアに18棟のゲストハウスが点在している。これまでに世界各国の元首や首脳ら800人以上を迎え入れているという。

 一部開放とはいえ、中国の開放路線はここまで来たのか。お金さえあれば、ここに泊まれるようになったのか。私は何度も自問した。

 このところ「6者協議」の開催場所として日本でも普通に知られるようになっているが、中国人にとってはやはり特別な場所であることに変わりはない。

 北京生まれ、北京育ちの私は、昔からいつもバスの窓越しにぼんやりと釣魚台をながめていた。

 そんな手の届かない存在だった釣魚台の広大な敷地内を歩きながら、大きく深呼吸をした。なんいとう広大さ。不思議な落ち着きを感じた。 さらにすごいのは、ここでは各所に国宝級の貴重な芸術品が展示されていることだ。何百年もの歴史の重みは人を圧倒する。

 もう一度森の中で深呼吸しながら、私は考えた。

 どうしてこれまで釣魚台の開放は認められなかったのだろうか。どのみち指導者たちはここに住んでいないのだし、国賓がいない時に開放してもなんの問題もないではないか。

 思いを巡らしながら、私は17号楼(別名「芳菲苑」)に入り、お土産展示品を見て回った。ここで釣魚台でしか売ってない万年筆を買おうと決めた。

 売店には女性の店員1人しかいなかった。

 「万年筆を買いたいのですが」

 こう告げると、店員はすぐにガラスのケースのカギを開けて、中のペンを出してくれた。

 ところが、万年筆は売れ切れてしまったようで、ケースにはボールペンしか残っていない。

 遠慮せずに「展示品で見た万年筆が欲しいのですが」と言った。

 店員は「在庫がもうないので、その展示品を持ってまいりますね」と答えて、ケースを無施錠のまま、その場を離れようとした。

 「鍵、鍵を閉めて!」

 私は思わず叫んでしまった。市中では考えられないことである。しかし聞こえなかったのか、店員はそのまま展示コーナーに行ってしまった。

 鍵のかかっていないガラスのケースの前で、私は困惑しながら彼女を待った。

 「良かった、ありましたよ」。何分かして、美しい笑顔で万年筆を持ってきてくれた。

 当然、私が商品を盗んでいないか、すぐにケースの中身を確認するだろうと想像したが、最後まで視線はケースに向かわなかった。

 彼女の笑顔はとても魅力的だった。営業スマイルやつくり笑いではなく、自然に出てくる笑顔だ。

 仕事で中国全国を回って、私は色々な出来事を経験したつもりだったが、彼女のように全く客を疑わない店員の姿は初めて見た。

 さらに宿泊して実感したのだが、出会う従業員のだれでもが、彼女と同様なのだ。特に中国人の私に親切に教えてくれる。これまでの経験からは考えられないことだ。

 「外の風景、きれいですよ。全部回って見ましたか。マップもあります」

 「明日パーティーがあるので、ここに残ったらいかがですか」

 みんな、あの彼女と同様の笑顔で私に話しかけてきた。

 ここの従業員はどんな教育を受けているのだろう。気になって調べてみたら、なるほど、と思うような話を聞いた。

 どこまで本当か分からないが一般からの募集はなく、政府関係者の推薦を経由した上で、さらに厳選されるという。道徳的、人間的に高いレベルが要求されるので、競争率は非常に高い。さらに容姿も重要らしく、女性は身長168センチ以上、男性は178センチ以上という。たしかに、応対してくれた女性も背が高く、美しかった。

 一般の中国人にとってはまだ雲の上の存在である釣魚台。そのなかにいる人たちも「浮世離れ」しているのかもしれない。

 あの人たちが「現世」に降りてくる日がいつか来るのだろうか。

于 前(YU QIAN)

 中国北京生まれ。フォト・ジャーナリスト。現在は東京を拠点に、中国大陸、香港、台湾の雑誌などに日本をテーマとした記事や写真を発表している。著書に「チャイニーズ・レンズ」(竹内書店新社)。

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