南アW杯最終予選・ウズベキスタン戦の試合前、「君が代」を歌う闘莉王=タシケント、越田省吾撮影
6月のカタール戦で、相手と激しくボールを奪い合う闘莉王=杉本康弘撮影
■闘莉王、渡日11年 必然だった「闘」の字 好きな日本語「気合」
日本人70%、ブラジル人30%。これ、日本代表DF、田中マルクス闘莉王を構成するメンタリティーの割合。「日本に来たときは逆だったんだけどね」
今でもブラジル人、マルクス・トゥーリオ・ユウジ・ムルザニ・タナカに戻る瞬間がある。毎日欠かさない母との電話の時だ。「元気?」。母の言葉に寂しさが募る。「この前、泣いてしまった。最近、涙もろいんだよね」
6月17日、ワールドカップ(W杯)アジア最終予選の最後の試合、豪州戦を終えた後も涙を浮かべていた。「いろんな苦しいこともあったし」。日系ブラジル人3世の28歳が地球の裏側からやってきて、11年が過ぎた。
「勝たなければ意味がない」。常にそう言ってはばからない。「仲間のよさを引き出すのもオレの仕事」。ピッチでは仲間をも怒鳴りつける。それが“闘将”とも評されるゆえんだ。
変わらない姿は11年前のブラジルにあった。激しいプレーと大きな声で仲間を鼓舞し続ける大型選手が、現地で留学生のテストをしていた千葉・渋谷幕張高サッカー部監督で日系ブラジル人の宗像マルコス望さん(50)の目に留まった。「初めて出会ったばかりの選手を統率していた。負けず嫌いだし、頭もいい。日本で成功すると思った」。300人以上の候補から合格。12歳のころからサッカー選手にあこがれていながら、その夢をあきらめかけていた少年の人生が変わり始めた。
「日本と言えば、祖母のつくるうどんとお餅とまんじゅうしか知らなかった」。決心は固めたが、快く送り出す父の横で母は泣いていた。
だから、知らない土地での弱音はぐっとのみ込んだ。周囲には強気な男に見えたが、内実は違った。「夜になると心細くて寂しかった。荷物をまとめ、本気で帰ろうと思ったことも5回くらいある。でも、どんな顔をしてブラジルに帰ったらいいのか。思い直してとどまったんだ」。家族にこう打ち明けたのは、最近になってからだ。日本語も必死に覚えた。高校時代から使い、手あかで真っ黒になった辞書は今も手放せない。
01年にJ1広島に入団。夢をかなえたかに見えたが、翌年に外国人枠の関係で戦力外を通告された。ブラジルから宗像さんに電話をかけた。「先生、オレが何か悪いことでもしたんですか」。受話器を握りながら、泣いていた。
心は折れなかった。成功しないわけにはいかなかった。03年、練習環境もままならないJ2水戸から再出発を図った。DFでありながら、時には前線に攻め上がるスタイルを認める前田秀樹監督(55)のもと、持ち味が開花。10得点をマークした。
03年10月、トゥーリオは闘莉王になった。「日本でお世話になった方に恩返しするには、日本代表になるしかない」と決断した。好きな日本語は「気合」。人生そのものも闘いだった。名前の「闘」という字は必然だった。
ただ、日本国籍を取るまで、思い立ってから1年以上がかかっていた。母が反対していたからだ。ただでさえ嫌がる母を押し切って日本に来た。今回は「お母さんが納得するまでは」と心に決めていた。日本に母を呼んだ。生活を見てもらった。一緒に祭りに行き、花火も見た。やっと得た母の了解。自らは「両親が亡くなる時、最後のあいさつができないのでは」という葛藤(かっとう)を乗り越えた。
代表入りし、日の丸をつけたくて仕方がなかった。アパートに戻れば、手を胸に当て、君が代の練習をした。
04年に強豪のJ1浦和に移籍したが、母国の英雄ジーコ率いる06年W杯日本代表に呼ばれなかった。「何で」と悔しがったが、06年8月にオシム監督の元で初招集。それからは、日本の守備を支え続け、打点の高いヘディングは重要な得点源になっている。
初代表から3年がたった。今でも青色のユニホームに袖を通すときは気持ちが高ぶる。「自分の血の流れが速くなる。心拍数も上がる」。最高に誇りを感じる。
日本人100%になれる瞬間は分かっている。それはW杯のピッチの上。「涙目になるかもね」。あと8カ月余り。子どものころから抱いてきた夢を実現する日が、待ち遠しい。(小田邦彦)
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7月11日現在