ブラジルに住む闘莉王の家族。右から母マデルリさん、父パウロ隆二さん、祖母照子さん、妹ルアーナ・ユリ・ムルザニさん=パウメイラ・ド・オエステ、柴田写す
■ブラジルの故郷 浦和の背番号4が街にあふれていた
サンパウロの北西約600キロ。農園と牧場が続く道を走った先に人口9700人の町、パウメイラ・ド・オエステはあった。教会の斜め向かいの家を訪れると、闘莉王の祖母、田中照子さん(81)が笑顔で出迎えてくれた。
「まあまあ、遠いところからようこそ。トゥーリオは信心深いから、帰っても『先にお祈りしてくるよ』と真っ先に教会に足を運ぶんですよ」。きれいな日本語の照子さんがほほえむ時、目元が闘莉王とそっくりに細くなった。
テレビではNHKの衛星放送が流れていた。6歳で家族とブラジルに移住した照子さんは「日本のことを知りたいと思って、いつも見ています」。大好きな祖母の家にいつも立ち寄っていた闘莉王は11年前、「ばあちゃん、日本に行くよ。泣かないで」と言ってこの町を離れた。
81年4月24日、照子さんの次男のパウロ隆二さん(56)とマデルリ・マリア・ムルザニさん(54)との間に闘莉王は生まれた。3630グラム、50センチ。「2歳の時にプレゼントは何がいいか聞かれて、本人が『ボール』って答えたの」とマデルリさん。12歳になると「プロになりたい」と言い出した。朝4時までサッカーをしていたこともあった。
地元のサッカースクールコーチで、11歳の時から闘莉王を指導したカルロス・アルベルトさん(52)は「上背があって、ジャンプ力も高かった。100人ほどの選手の中でも目立っていたね」と話す。試合前に「先生、ボク2点取ってくるよ」と言い、その通り取ったこともある。
負けず嫌いで周りを怒鳴りつけるのは、今と同じだった。「『2人目の監督』だった。チームに闘う姿勢を植え付けていたよ。父親から受け継いだんだな。隆二も草サッカーでは足が動かないのに、怒鳴ってばかりいるよ」
責任感の強さは、教員を経て弁護士になった父の教えだろう。隆二さんは13歳から闘莉王を会計事務所で働かせた。「自分の親も、自分自身も10歳から仕事をした。早いうちから社会の中で尊重すべきものを身につけることが大事だ」と隆二さん。闘莉王は午前8時から午後5時半まで働き、自転車に乗ってサッカーの練習に向かった。終わると夜間学校に。「夕食もろくに取らずに頑張っていたわ」とマデルリさんは振り返る。
闘莉王が持ち合わせていたのは厳しさだけではなかった。帰ると裸足だったことがあった。貧しい子に自分の靴を与えてしまったのだ。シャツをあげて上半身裸で帰宅したこともある。「私の運動靴を探していると、『靴がない子にあげちゃった』と平気な顔で言われたこともあるのよ」とマデルリさん。
今でも、故郷に帰ると孤児院や養老院に寄付をする。きれいに塗装された教会のペンキ代も、闘莉王が寄付したものだ。スクールにも、ボールやGKのグローブを持ち帰る。ユニホームもみんなに分け与えるので、「町には浦和の背番号4がいっぱい」と照子さんは笑う。
日本行きが決まったとき、マデルリさんは驚いた。「まだ子供なのに。でも本人の決意が固すぎて、自分も行くなと言えない。悲しいばかりでずっと泣いていた」
闘莉王は日本語がまったくできなかった。高校では日本語で日記をつけた。「見せてもらったら、上手でした。トゥーリオはやろうと思えばやるんです。数学でサンパウロ州の一番になってご褒美をもらったこともあるんですよ」と照子さん。「今では、納豆が好きだって言うんです。私は食べたことないけど、それがうまいんだよって」
日本国籍取得はマデルリさんには「2度目の悲しみ」だった。でも「本人のためなら仕方ない。血を分けた息子に違いない」と思う。照子さんに、本人はこう説明した。「ばあちゃん。自分は闘わないといけないから、『闘』という字を使うんだ」
今年4月、祖父の義行さんが91歳で亡くなった。「お世話になった皆さんのご恩は絶対に忘れるなよ。日本の役に立つ人になれ」と孫に言い続けた人だった。日本代表の誇りと重み。そして、祖父の言葉を胸に、闘莉王は南アフリカに向かう。(柴田真宏)
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7月11日現在