日本の不動の右サイドバックだった。しかし、W杯に向けて5月21日にチームが集合した後、内田篤人(22)=鹿島=に出番は巡ってこなかった。原因不明の吐き気、腰やひざの痛み。細身の体は過密日程に悲鳴を上げていた。「中心選手の不調が続いていた。どこかで踏ん切りをつけなければいけなかった」と岡田監督が明かしたのは1次リーグ突破後。中村俊と共に構想から外れていた。
「けがで出遅れた。他の先輩の調子がよかった。その中で、自分の存在を揺るぎないものにする実力が足りなかった」。パラグアイ戦後。涙がにじんだ。一言ずつ、かみしめるように話した。
静岡・清水東高時代から年代別日本代表に選ばれていた。J1鹿島で、新人だった2006年から定位置を獲得した。07年の20歳以下W杯、08年の北京五輪で主力を担った。順風満帆なサッカー人生。このW杯が、初めて経験する控え暮らしだった。「どうすればいいか、わからない」。心が折れかけていた時、携帯電話に1通の短いメールが届いた。チームが南アフリカ入りした6月6日。送り主は鹿島の8歳上の先輩、新井場。「理想のサイドバック」と慕う存在だった。
「何してんねん」
慌てて電話した。「先発落ちしました。蚊帳の外です」
「腐っちゃ、あかん。最終的には、お前が試合に出なければチームは攻められないんだから」
「いい先輩を持てて幸運だった」。吹っ切れた。紅白戦や練習試合で、切れ味の鋭い攻撃参加が戻った。「チームがうまく回っている時、DFを代えるのが難しいことはわかっている。僕にできるのは練習で力を出し尽くすこと」。本番でベンチから声をからした。「周りが今まで僕にそうしてくれていた。控えにも役割がある。当たり前のことに改めて気づいた」
ピッチに立てないまま見届けたW杯。パラグアイ戦を終え、ある疑問が頭に浮かんだ。
「日本には勢いがあったのに勝てなかった。経験の差? それとも……。なぜだろう」
この夏、シャルケ(ドイツ)に移籍する。今月中旬の合宿から合流する予定だ。欧州チャンピオンズリーグに出場する強豪で自らを追い込む。「何年か後に『ドイツへ行ってよかった』と思えるか。このまま、ずるずると落ちていくか。すべては自分次第」
南アフリカで見つからなかった答えを探す旅に出る。(中川文如)
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7月11日現在