「五感で感じる 香り・手触り・視覚でリラックス 好みを生かすことも大切」
見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐ――ヒトは五感を通じて様々な情報を取り入れ、日々の生活に利用している。五感から得た情報は、心の動きにも大きく影響することが知られており、おいしいものを食べれば心が明るくなるといった経験は、多くの人に共通する。
五感の働きを使ってモードチェンジを行い、ストレスへの対処に利用しようという動きはますます注目されるようになり、最近ではその科学的根拠を調べる研究も進んできた。
心を穏やかにして、ストレスの影響を少なくするための手段として、昔からよく知られているのが「瞑想(めいそう)」だ。仏教など宗教上の行動の一つとして始まったとされるが、現在では宗教とは無関係なものも含めて広く普及し、多くの場合は思考にとらわれている状態を遮断し、今この瞬間に生じる感覚や感情に意識をむけることによって心の安定を目指す。
海外の文献を中心に情報を発信する厚生労働省のサイト「eJIM」によると、瞑想を行うことによって血圧の降下、不安感・抑うつ感・不眠の改善といった効果を得られる可能性があることが、各種の研究によって示唆されているという。
ウェルビーイングの普及に伴って最近、注目を集めているのが「マインドフルネス」だ。瞑想などのやり方や効果をより科学的に再構成した考え方とされ、1980年代前後に米国で瞑想やヨガを取り入れた実践法の研究が始まり、世界中に広がっている。
「心理相談室ケセラ」代表の成田恵さんは、マインドフルネスについて「今、この瞬間に気づきを向けて、思考や感情にとらわれない状態」と説明する。
臨床心理士・公認心理師としてこれまでたくさんの悩みを持つ人たちに向き合ってきたなかで、成田さんは、悩みを持つ人の多くが「思考の連鎖」にとらわれ、必要以上に強い不安を抱えてしまっているという。
そういったケースの悩みを軽減するためには、現実に意識を戻すことで「思考の連鎖」を断ち切り、少しずつ行動を変えていく必要がある。その解決策の一つとして、マインドフルネスを意識することが役立つ可能性があると考えている。
具体的なやり方として、成田さんは次のようなステップの「マインドフルネス瞑想」を、日常生活に中に取り入れることを推奨している。
(1)座った状態で目を閉じ,呼吸に意識を集中する
(2)途中で様々な考えが浮かんできたら,その考えに気づき,また呼吸に意識を戻す
(3)上記(1)~(2)を毎日、15分から25分間繰り返す
行う際には、「こんなことを考えてはいけない」「集中しなくちゃ」などと考えるのではなく、あるがままの自分を観察し、受け入れる姿勢で取り組むことが大切だという。
「体を鍛えるために『筋トレ』があるのと同じように、マインドフルネス瞑想を続けることで集中力が高まり、感情をコントロールする力がつくようになります。毎日行うことが理想ですが、筋トレと同じで、少しずつ無理のない範囲で長く続けていくことが大事です」と話している。
一方で、ストレスに対処するために、五感から入ってくる情報を積極的に活用し、体や心のコントロールに利用する研究も進んでいる。
東邦大学で脳神経を中心とした神経科学を長年研究し、現在はブレインアナリスト協会/可能性アカデミーで学術顧問を務める増尾好則さんは、匂いと脳のストレス反応の関係について注目し、研究を進めてきた。
例えばコーヒー。ストレスを緩和し、うつ病などのリスクを抑制するという研究成果が出ているものの、それが香りによるものなのか、カフェインなどの成分によるものなのかは、はっきりしていなかった。
増尾さんたちの研究グループは、足元を水浸しにすることでストレスを与えたラットに、コーヒーの香りを嗅がせる実験を設計。ラットを「何もしない」「ストレスだけ」「香りだけ」「ストレスと香りの両方」の4グループに分けて実験を行い、ラットの脳内因子の遺伝子やたんぱく質の発現レベルにグループ間で違いが出るかどうかを調べた。
ともにストレスを与えたラットで比較した結果、コーヒーの香りを嗅がせたグループの方が、神経の成長を促す遺伝子や老化を防ぐたんぱく質が多くつくられていた。また、興奮を抑えるためのたんぱく質がつくられる量は少なかった。
ほかの遺伝子やたんぱく質でも調べた結果、コーヒー豆の香りそのものがストレスを緩和している可能性がある、という結論に至ったという。
同様の実験で、増尾さんたちはコーヒー以外にもラベンダーやヒノキの香りでも、ストレスを抑制する可能性があることを突き止めた。
ただ、この成果をヒトに応用するには、まだ越えなければならない大きな壁が存在する。
そもそも、匂いに対するヒトの脳の反応を、動物実験と同様の方法で調べることは不可能だ。また人間の場合、その匂いに対しての好き嫌いといった感情が、なんらかの作用を起こしてしまう可能性も捨てきれない。
それでも研究が進む可能性は広がっている。例えばヒノキの香りの場合、ストレスを抑制する成分の特定も進んでおり、動物の脳内でどのように作用しているかも明らかになってきているという。
増尾さんは「匂いが脳のストレス反応に大きな影響を与えることは間違いなく、そのメカニズムも徐々に明らかになっている。今後、技術や機器の進歩によって、研究成果を人間にも応用することができるようになれば、私たちの生活を大きく変える可能性もある」と期待を寄せている。
難しいとされる人の五感とストレスの関係について、別のアプローチからの研究も進んでいる。
「自然の中にいると気持ちがほっと落ち着くことは、子どものころから実感していました。そして、なぜそのように感じるのだろうと、不思議に思っていました」。そう話すのは、千葉大学環境健康フィールド科学センターの池井晴美・特任助教だ。
ストレスを軽減する、リラックスするといった人間にとって快適な作用を、自然の力を借りて実現することは「自然セラピー」と呼ばれ、森林浴など私たちが実感できるものも多い。
では、人はなぜ自然に触れると快適さを感じるのか。池井さんたちが提唱するのが「自然回帰理論」だ。
「人は約600~700万年間、自然環境の中で進化してきたため、私たちの身体は、自然対応用にできていると考えられています。仮に、産業革命を都市化の始まりと仮定した場合、その期間は200~300年間に過ぎません。私たちは自然対応用の身体を持って、現在の都市化・人工化された環境で生活しているため、知らず知らずのうちにストレス状態になっているのです」と説明する。
自然セラピーの研究では、その理論を裏付けるような結果が出始めている。
従来の研究では、自然が人にもたらす効果を確かめる手段として、参加者にアンケートなどで回答してもらう方法がほとんどだった。この場合、参加者の主観や好みが反映されてしまう可能性が高く、客観的なデータを取るのが難しいとされていた。
池井さんたちは、
- 脳活動(光を使って脳の前頭前野活動を毎秒計測)
- 自律神経活動(リラックス時に高まる副交感神経活動とストレス時に高まる交感神経活動を計測)
- 内分泌活動(唾液中に含まれるコルチゾール等のストレスホルモン濃度を計測)
といった生理指標を用いることで、客観的なデータを取ることができる実験を設計。自然とストレスの関係について調べた。
池井さんが特に注目したのは木材。ヒノキの香りについて調べたところ、天然乾燥チップ、枝葉から抽出した精油、香り成分だけを抽出したもの、いずれの場合でも嗅ぐと身体がリラックスしていることが確認できたという。
さらに触覚にも注目。目を閉じた状態で手のひらで建築素材に触る実験では、大理石やタイルなどに比べて、木材に触ったときに脳活動がより鎮静化し、リラックス時に高まる副交感神経活動が高まるというリラックス効果をもたらすことが明らかになった。木材に素足で触れる実験でも、同様の結果が得られたという。
この効果は視覚でも有効であることがわかってきた。大型ディスプレーにスギの木目の画像を映し出して見てもらう実験では、グレー単色の画像を映し出したときに比べて、身体はやはりリラックスしていた。
池井さんによると、視覚によるリラックス効果は、部屋の中に置かれたバラの花や観葉植物でも確認できた。また、生花と造花を比較した実験では、パンジー鉢植えは、造花に比べて、ストレス時に高まる交感神経活動が抑制され、ストレス軽減効果があることもわかった。
池井さんたちはさらに、森や公園の中を歩くことで脳や身体に与える影響も調べている。森や公園内で座って景色を眺めたり歩いたりすることは、都市と比べて、やはりリラックス効果があることがわかってきたという。
課題もある。木に触れる実験や、木目の画像を見てもらう実験では、リラックスするという結果は同じになるものの、ある条件では脳の右前頭前野活動が鎮静化し、別の条件では脳の左前頭前野活動が鎮静化するなど、反応の仕方が異なるケースがあった。現時点では、詳しい理由などはわかっておらず、今後の課題であるという。
また、自然がもたらす効果の個人差についても検討している。例えば、森林浴実験では、元々の血圧が高い人は低下し、血圧の低い人は上昇するという現象が観察され、自然が人の生体を調整する効果があることがわかってきた。
池井さんは「自然が私たちの身体にもたらすリラックス効果について、少しずつですが、科学的データで示すことができるようになってきました。一方、メカニズムや個人差など、まだわかっていないこともあります。自然がもたらすストレス軽減効果やリラックス効果を得るためには、自分自身が好きだと感じるものを能動的に選んで、生活の中に取り入れていくことが大切です」と話している。