大阪府北部を震源とする最大震度6弱を記録した地震の被災地は、過去にも大地震に見舞われている。豊臣秀吉が天下を統一した時期にあたる1596年の「慶長伏見地震」だ。「地震考古学」の第一人者として知られる寒川旭(さんがわあきら)・産業技術総合研究所名誉リサーチャー(71)に、慶長伏見地震と今回の地震の特徴などについて聞いた。

 ――慶長伏見地震とはどんな地震だったのですか。

 今回の地震は大阪府周辺の活断層のうち、「有馬―高槻断層帯」「上町断層帯」「生駒断層帯」の三つが交差する複雑な場所で起きた。このうちの有馬―高槻断層帯が、1596年に起きた慶長伏見地震で最大級の活動をしていた。豊臣秀吉が築いた伏見城(京都市伏見区)の天守閣の上半分が崩れ、二ノ丸も倒壊し300人余りが命を失ったとされる。

今城塚古墳の横穴式石室の土台とみられる石組み遺構。慶長伏見地震で、盛り土と一緒に崖下へ滑り落ちたとみられる=大阪府高槻市、2007年3月撮影

 従来、慶長伏見地震は狭い範囲の地震とみられてきたが、近年、新史料の発見や遺跡の発掘調査が進み、大きな被害をもたらした地震だったことがわかってきた。(6世紀前半の継体〈けいたい〉天皇の墓の可能性がある)大阪府高槻市の今城塚古墳では墳丘の直下に断層があり、墳丘の7割程度が地滑りを起こしていた。神戸市の須磨寺に残された記録には寺が被害を受け、兵庫の町並みも残らず倒れて燃えたと記される。淡路島でも洲本城が崩壊するなど広い範囲で被害があったようだ。