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東京の台所
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〈11〉やっと、たどりついた「ひだまりの家」

〈11〉やっと、たどりついた「ひだまりの家」

〈住人プロフィール〉
グラフィックデザイナー、装幀家・42歳
マンション(賃貸)・2DK・東急東横線 学芸大学駅(目黒区)
入居5年・築年数37年
恋人(陶芸家)、娘(中1)との3人暮らし

    ◇

 前の結婚相手は、自分にはできすぎた人だった、と述懐する。普通の男性以上に優しい言葉をかけてくれるし、心から1人娘を愛してくれた。住人が自分で部屋を探してきて別居を申し出たとき、「きみはよくても、こんな汚い部屋に子どもを住まわせられない! 僕が差額を出すからもっときれいな部屋に住んでくれ」と2万円を渡された。

 優しいからこそ、むしろ苦しくて一緒に暮らせなくなったのかもしれない。

 18のときから、彼女の恋愛相手は同性だった。20代後半に初めて男性と付き合い、自分がセクシャルマイノリティーであることを告白したうえで、互いに納得して結婚した。だが、出産後、満たされない気持ちが徐々につのっていった。

 「出産するまでは終電までデザインの仕事をして、帰宅後は夫と飲みながらおしゃべり。それだけで十分楽しかったのです。でも出産後、休業して家にいるようになって、子どもと向き合うだけの毎日の中で、話すことは子どもの事ばかりに。仕事をしていたときのようにだれかに評価されるわけでも、ありがとうと言われるわけでもない。今日は少し笑ったとか、今日は昨日より少し高く足を上げているとか。だんだん彼が生返事をするようになりました。私は今まで社会が自分に与えてくれた満足感を彼に求めたのかもしれません。だれかに強烈にかまって欲しかったし、だれかを強烈に愛したかった。今説明しようと思うと、孤独感と育児疲れという簡単な言葉しかみつかりませんが、それだけとも言いきれない表現しようのない心のしみが、日に日に大きくなっていったのです。インターネットサイトで知りあった同性と恋に落ちたのはそんな頃でした」

 しかし、夫と子どもがいる身の自分に、恋愛の相手もやがて、ためらい始める。もっと自由になりたいし、堂々と生きたい。夫の帰りを待ち、子どもを育てるだけの自分になりたくない。子どもを育てながら、人間としても自立したい。同性に惹(ひ)かれる自分と暮らす夫にも申し訳ない。様々な気持ちが入り乱れた。

 夫から離れ、不動産屋に“仕事部屋”と偽って借りた母子2人の部屋は北向きで、窓が幹線道路に向いていた。だから1日中、カーテンは閉めっぱなしだった。

 「自由が欲しくて別居したのに、そこで得たのは自由ではなく、不自由でした」

 別居していることを双方の両親に隠し続ける不自由。籍は入ったままのため、誰かを好きになっても“不倫”となって相手を苦しめることになる不自由。離婚するのかしないのか、自分でも先の見えない不自由。パパとママがどうなるのか不安に思っている子を抱えながら1人で育てる不自由。

 再開した仕事が途切れず、次々舞い込んでくることだけが心の支えだった。締め切りとともに朝を迎え、風呂に湯を溜め続けたまま寝てしまったことは数え切れない。いつも目の下にクマがあり、そしてあいかわらず、部屋には日が入らなかった。

 「子どもとふたりぼっちで社会からはぐれてしまったような……。いろんな嘘を重ねないと続けられない生活で、言わばずっと日陰の時間が流れていました」

 仕事が軌道に乗り、誰の力を借りなくてもマンションを買える経済力がついたとき、正式に離婚を決意し、今の2DKに越した。そうするまでに6年がかかった。

 玄関扉を開けると、正面の白いカーテン越しに、テラスの鉢植えのミモザの影がケラケラと笑っているように見える。入ってすぐに台所が広がる。でも、ミモザの影が目にとびこんでくるからか、意外にシンクや冷蔵庫は気にならない。

 「ここへ来て、ミモザと南天を買ったんです。テラスの日当たりがいいからすぐ育って大きくなっちゃいました」

 いま、中学生になった娘と恋人の女性と暮らす。けっして広くはないが、台所がとにかく明るい。1日中、風と光が気持ちよく舞い込む。マンションを借りる決め手もそれだった。

 台所の床は、大家と交渉して、ビニールクッションのフロアをはがしてもらい、自分でケンパスという木材の羽目板を置いた。原状復帰が条件のため、糊をつけていないのでときどきずれるが、その不便より、好きな内装で暮らせる気持ちよさのほうがまさる。のこぎりで木を切り、まさに力尽くで仕上げた台所なのである。

 なんていうことはない古いマンションの、小さな1室。だが、そこに吹く風は春の日だまりみたいにどこまでも穏やかで、しみじみと柔らかな空気に包まれていた。

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