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東京の台所
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〈48〉夜更けのグラス、夫婦ふたりだけのとき

〈48〉夜更けのグラス、夫婦ふたりだけのとき

〈住人プロフィール〉
グラフィックデザイナー・46歳(女性)
戸建て・2L+DK・京王線 仙川駅(調布市)
入居13年・築年数58年
夫(カメラマン・53歳)とふたり暮らし

    ◇

 彼が彼女の2Kのアパートに転がり込んで始まった結婚生活の1年目に、ふと思ったらしい。

 ──賃料も高いし、頭金さえなんとかしたら家を買えるのではないだろうか?

 新築するとなると、いまの予算で買える建材の質はたかがしれている。だったら、大工の技術がしっかりした時代に作られた古い家を安く買い、手を入れて住もう。そう思い立った。

 見つけたのは、武蔵野の面影残る丘陵地で、晴れた日は富士山が見える高台の古家である。

 「洋画家のご主人がアトリエとして建てた家で、その後住まいも兼用にしたので台所を増築しているのです。リビングが吹き抜けの少し変わった間取りだけれど、とっても気に入りました」

 ところが、物件を見た先客がすでにいた。そちらは、「更地にして引き渡し」を希望。ふたりは「直しながら住み継ぎます」と申し入れた。軍配は彼女たちに上がった。今でもその画家の夫婦と年賀状のやりとりが続いている。

 「契約の時に古いタウン誌を何冊もくれましてね。それを読んだら、自分たちがこれから住む町のことがさらに好きになりました」と、彼は13年前にもらったという冊子を見せてくれた。

 冬はすきま風があるし、最近は雨漏りもする。「倒れませんようにと、毎日祈るような気持ちで住んでいるんですよ」と、彼女は笑いながら言う。

 台所は大きな窓から光が入る独立した空間で、元の住人が料理をしやすいように棚を作ったり、フライパンを掛けるバーがとりつけたりしたものをそのまま使っている。木造とステンレスの造作工事の台所は、「システムキッチンにはない大工仕事の手作り感と、いたるところにある小さな工夫が気に入っています」

 平日は朝食のみ。それぞれ仕事があるので、週末をのぞけば夕食は外で済ますことが多い。そのかわり、いつもの朝は、ご飯、サラダがわりに野菜たっぷりの味噌汁、焼き魚、漬物、佃(つくだ)煮をそろえる。

 「大人ふたりなので、親に叱られそうなくらいの必要最低限の料理です」と、彼女は謙遜するが、ふたり仲良く健康で長生きしたいという気持ちが読みとれる、じつに立派な朝食である。

 取材後、彼女から1通のメールが届いた。「取材では、恥ずかしくて言えなかったのですが」という前置きが添えられたそのメールには、思いがけない心情が綴(つづ)られていた。子どもが欲しかったが授からなかったこと。あきらめきれず悶々(もんもん)とした日々が2年以上続いたこと。子育てという経験は手にできなかったけど、そのぶん、彼と気ままな歴史旅に出かけたり、趣味の古道具を買ったり、食生活も大人の献立を楽しもう、と今は素直に思えるようになったこと……。

 それを読んで、彼女は自分をなだめるための言い訳や割り切りではなく、心から決めたのだと思った。彼とふたりの人生を生きていくということを。

 リビングのちゃぶ台に、何枚ものコースターが入ったかごが置かれていた。こんなにどうするのですか?と聞くと、彼が言った。「俺たち呑兵衛(のんべい)だから、焼酎やビール、ワインやらを延々飲んじゃうんですよ。そうすると、机がびしょびしょになっちゃうから、コースターを次々替える。台所にとりに行くのがめんどうくさいから、ここに置いてるんです」

 週末は、お気に入りの生ハム屋で買った大好物のサラミをつまみに、録画しておいた歴史や紀行ものの番組を見ながら、朝がたちかくまでふたりで飲み、しゃべり続ける。「それが僕にとっての至福の時間です」と、彼女がいないところで彼は教えてくれたのだった。

 いろんな夫婦の形がある。暮らしを紡ぐということは、ときに人に言えないような哀しみや、ままならない痛みを内包した苦い時間を重ねていくことでもある。それでも時が経てば何かが変わっていくし、優しくとけたり、許したり、うけいれることができるようになっていく。

 ひと晩にコースターが3枚も4枚も必要になってしまうふたりが、私にはうらやましく思える。朝までおしゃべりが絶えない夫婦なんて、そうそういるものではない。ないものを数えてもしょうがない。あるのは夫婦の絆。それで十分ではないでしょうか、と返信したかったが、気恥ずかしく、不遜な気もして書けなかった。絆なんて、他人がそんなに簡単に口にするものではないだろうから。

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