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東京の台所
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〈106〉赤いビールの思い出

〈106〉赤いビールの思い出

〈住人プロフィール〉
放送作家・39歳(男性)
賃貸マンション・2K・JR山手線 恵比寿駅(渋谷区)
入居2年・築年数52年・ひとり暮らし

    ◇

 2年前の5月。不動産屋に案内されたビルの1室に、「うわっ、古いな〜」と思わず声が漏れそうになった。しかし、山手線の恵比寿駅まで徒歩3分。8階の窓の向こうは空が広々と見える。

 「この部屋に呼ばれたような気がするんですよねえ」と、彼は言った。フリーランスの放送作家なので、家で仕事をすることも多い。長く居る場所が明るくて広いという魅力は、古さを凌駕(りょうが)した。

 「越してすぐ近所の寿司屋に行ったら、あのビルはおそらく恵比寿で一番古いよ、と大将が教えてくれたんです。東京オリンピックの前、建つのにだいぶ長くかかってたからしっかりした建物だよって。そういう昔ながらの人が地域にいて会話ができる、下町的な雰囲気も気に入りました」

 足を踏み入れると、たしかに玄関も広い。玄関から台所へ行くのに1枚扉があり、あそびのスペースがあちこちにある。台所は大容量の戸棚付きだ。そのほかに吊り戸棚も。いい時代の余裕のある造りが見てとれる。

 ひとりにはぜいたくな空間だ。だが、スタジオ通いも多い彼は「自炊は週に1回すればいいほう」とのこと。使いやすそうな台所はもっぱら、喫煙所やサプリ置き場として機能しているらしい。

 台所の床に、見慣れぬおしゃれな赤いストライプの箱が幅をきかせていた。中をのぞくと外国のビールのようだ。

 「あ、それ。ベルギーのリーフマンスっていうフルーツビールです。チェリーやストロベリーが入っていて、すごくおいしいんですよ。俺、これ大好きなんです」

 買ったばかりなのだろうか。箱の中は減っていない。

 すると彼は、問わず語りのようにぽつりぽつりと、ある男性の話を始めた。わたしに話すというより、自分に話しかけるかのような静かな口調だった。

 「26歳上の先輩作家がいたんです。6年前に知りあって、それから飲むようになった。土曜の生放送後、夕方4時頃から毎週ふたりで。酒や酒場が好きな人で、テキーラソムリエの資格持ってるんですよ。変わってるでしょ? 1軒目はいつもスタジオ近くのベルギービールの店でした。そこで初めてリーフマンスを知って。オーダーすると“お前はその酒好きだなー”っていつも笑うんです」

 65歳。自由に使える金が減っているのはどこの業界も同じだ。同僚同士で飲みに行くことが減る中で、その先輩は毎週声をかけてくれてはいろんな遊びを教えてくれた。

 「店の女の子の口説き方、酒の飲み方、60年代のポップス。あたらしもの好きで、おしゃれなお店を見つけるのが早かった。ジムに行ったり、マラソンもしていて、いまだにシャツの襟を立ててる。男のダンディズムを学びました。本人? それが全然イケメンじゃないんですよ。見た目はダンディズムにほど遠い(笑)。きのうバゲットでうまいサンドイッチ作ってさあ、なんて言うと、“その顔で、なあ~にがバゲットだよー”とみんなにからかわれていました」

 下からも上からも好かれる稀有(けう)な人だった。その人が今春、病で急逝した。

 「あまりにも急にいなくなっちゃったものだから。僕は大人のサイトを教える以外なんの御礼もしていないのに。家でもリーフマンスを飲みたいと思ってケース買いをしたんですが、届いた頃に亡くなって。この箱を見ると、お前好きだなーっていう先輩の顔を思い出しちゃうんですよね」

 いつまで仕事が続くか、将来を不安に思っていたときにかけられた言葉が忘れられない。

 「俺も60まで放送作家ができたから、お前もできるよ」

 どんな励ましの言葉より背中を押された。彼の背中が道しるべだった。

 「今でも仕事で迷うと、あの人ならこういうときどうするだろうと考えることがあります」

 つなぐ言葉の合間から、乾かない哀しみがこぼれ落ちるようだった。

 ゴールデンウイークに一人で墓参りをしたという。

 「ハイボールを作って墓前で話していたら、俺、酔っ払っちゃって。ウイスキーの瓶とソーダとコップを先輩用に置いてきました」

 1杯飲んでみますか、と彼はリーフマンスを開けてくれた。冷たくて、ほのかに甘酸っぱくて、でもしっかり大人の苦味もあってわたしは思わず声を上げた。「めちゃくちゃ、おいしいですねえ!」。彼はそっと笑うだけで自分は飲まない。じめじめ湿った空気を吹き飛ばしてくれそうな爽やかなこの赤い液体が、彼の喉を潤すのはどれくらい先なんだろう。

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