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MUSIC TALK
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不安定な世に届けたかった、出産後の「悲しみジョニー」 UA(前編)

撮影/山田秀隆

聴く者の心を、ときに震わせ、ときに大きく包みこむ。そんな歌声と独特の世界観を持つUAさんは、デビュー以来、日本の音楽シーンでもとびきりユニークな存在として光を放ち続けている。その音楽のルーツから、自らの母としての横顔を語る。

子どもの頃に聴いた音楽

――幼いころの音楽の思い出は?

小さいころは“ザ・歌謡曲”の時代でした。テレビから流れてくる音楽も大好きで、ブランコに乗りながらピンク・レディーを大声で歌ったり、都はるみさんのモノマネをしたり(笑)。幼稚園のときに毎月童謡のレコードを買ってもらっていて、レコードそのものや「かける」という行為も大好きでした。毎日レコードに合わせて童謡を歌っていた記憶もあります。「マーチングマーチ」「お山の杉の子」……そのころ好きだった歌は、子ども向けの音楽番組「ドレミノテレビ」(NHK)で「うたううあ」という歌のお姉さんをやったときに、ずいぶん歌いました。

小学校は大阪の公立校だったのですが、音楽教育にとても熱心な学校でした。中でも、カール・オルフというドイツの作曲家の作品に力を入れていて、たて笛で演奏しました。高学年になって入った器楽隊では、木琴や小太鼓などあらゆる楽器に触れて、楽しくて楽しくて夢中になりましたね。仲良しの女の子たちで、時間があれば音楽室で練習していました。なんと6年生のときにはレコーディングもして、それを卒業記念でもらったんです。カール・オルフの楽曲は、私に音楽の楽しさを教えてくれました。

ビートルズなど大人が聴くようなレコードは家にあって、耳には聞こえていたんだろうけど、音楽を聴いているという意識はなかった。自分で聴き始めたのは、小学校高学年ぐらいからかな。ラジオでエアチェックして、マドンナとか、カルチャークラブやカジャグーグーといったニューロマンティックのバンドなど、当時流行っていたメジャーな洋楽を録音しました。一方で、いわゆる「宝島系」と呼ばれた日本のインディーズバンドにも興味があって、レンタルレコード屋でひとしきり借りてきたり。かと思えば、エレクトーンを習っていたのでYMOを聴いて、自分で弾くことも。「ライディーン」は完コピしてました。

ジャズクラブでのバイトが歌手への道を開いた

――高校卒業後は、美術系の大学に進学されました。

大学ではグラフィックデザインの勉強をして、デザイン系の会社に就職もしました。でも、1カ月ぐらいでクビになっちゃって(笑)。社会人としての意識が足りなかったんですね。実は、映像の仕事に就きたいという思いもありました。

学生時代、イギリスの映画監督デレク・ジャーマンをはじめオルタナティブな作品に魅せられて、自分でも8ミリフィルムでイメージの断片のような映像作品を作っていたんです。もう一度映像についてきちんと学び直したい、そのためにまずはお金を貯めなきゃ、と、大阪の新地にあるジャズクラブでアルバイトを始めました。白髪のおじいさんたちがトリオで生バンドをやっているような店で、新地にまだこんな店があったんだと驚きましたね。亡くなりましたが、その後私のツアーメンバーとして参加してくれたバイオリニストの本地陽子さんが弾いていたりして、今思えば、どこか運命的なものを感じたのかもしれません。

当時の私は音楽はもっぱら聴く専門。そのクラブでもお酒を作ったりするサービスとして働くつもりでした。ところが、ほかのスタッフがみんな歌っていたんです。歌はもちろん大好きで、家でアレサ・フランクリンの歌詞をカタカナで書き出して歌ったりはしていたんだけど、人前で歌おうなんて思ってもみなかった。でも、みんながジャズやアメリカンポップスをカッコよく歌ってるのを見て「私もやってみようかな」って。

でも、私はカラオケしか経験がないから、生バンドの演奏だとどこから歌に入ったらいいのか全然わからない。初めてステージに立った時は、仁王立ちのままで最後まで何も歌えず、泣きながら楽屋に帰ったことを覚えています(笑)。それから歌い始めたわけですが、目は開いてなかったと思う。

  

――その後、どういう経緯でメジャーデビューすることに?

お金を貯めて、東京で1年間、映像の勉強をしました。理論も学んで卒業制作も頑張ったけど、正直それからどうしたいのかが自分でもわからなくなってしまった。今度は憧れていたニューヨークにでも行こうと、再び大阪に戻ってクラブで働き始めました。そのとき、私の歌を聴いた人が声をかけてくれたのです。

歌手になるなんてピンとこなかったけれど、不思議と何かそれまでに感じたことのない新しい感覚を覚えて。でも、「嫌になったら辞めさせてほしい」と予防線を張って、東京へ。そして1995年、「HORIZON」でデビューしたのです。

――詞の世界観も含め、デビュー早々、とても大きな反響を呼びました。戸惑いはありましたか?

音楽を作るということに関しては何の経験もない私でしたが、詞はすべて自分で書こうと決めました。歌詞を書くのは初めてだったけれど、映像を撮るとき、イメージを膨らませるためたくさんの言葉の断片をノートに集めていた。それが、とても役に立ちました。

私が書く歌詞って文字だけで読むと意味が見えづらかったりするのですが、音とともに映像的に捉えてもらえたことで、しっくりきたのかな、と。藤原ヒロシさん、朝本浩文さんといったプロデューサーに恵まれたことも、とても大きかったと思っています。

とはいえ、自分の歌った歌が売れているという実感はなかった。でもある日、いつものようにバスに乗って渋谷に行ったら、デパートで私の曲がかかっていて。これ、この間歌ったやつだよね!?って軽くパニックに(笑)。そのデビューの翌年、結婚、出産と続きました。産休中に家にこもっていたとき、たまたま見たテレビで、自分のことが「ママドル」とか言われていて。ママドルなのか私は?(笑)。メディアっておもしろいよね。私のことを伝えているのに、私とはまったく別のところで動いていて、本人はポカーンみたいな(笑)。そういう、流通やメディアの仕組みみたいなものに、当初戸惑いはあったかもしれません。

NEXT PAGE地に足をつけて生きることに、子どもが気づかせてくれる

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