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東京の台所
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〈122〉男32歳。思い出の母の味は……

〈122〉男32歳。思い出の母の味は……

〈住人プロフィール〉
会社員・32歳(男性)
賃貸マンション・3K・西武新宿線 西武柳沢駅(西東京市)
入居1年半・築年数30年・ひとり暮らし

    ◇

 「何か教えてほしいことある?」

 残り少ない自らの余命を知る母が息子に尋ねた。

 「うーん。豚の煮物かなあ」

 彼は答えた。豚バラとごぼうとゆで卵の炊き合わせで、親戚などが来たときに母が必ず作るふるまい料理だった。

 ところが作り方は聞いたんだけど、分量までは聞き忘れて。だから今でも作るたびに味がどんなか、ドキドキなんですよ~と彼は言った。この取材のために朝から煮込んでおいたというそれを私はいただいた。しょうがの香りがきいた、甘辛い、日本人なら誰もが好きな懐かしい味。茶色い卵もそれだけでおかずになりそうだ。いい具合にごぼうに味がしみている。

 「そうなんです、じつは豚じゃなくてごぼうがこの料理の主役なんです。これがないと始まらない」

 彼は嬉しそうに語る。お母さんの味と比べてどうですか? 近づいてます? と何気なく聞いた。

 「それが覚えてないんですよねえ。もう10年も前のことだから。体調を崩してからは母の料理も食べてないですし、これを母が作ったくれたのはさらにそれよりも前ですから」

 22歳。大学4年だった。母を亡くしてから、味の記憶が薄れるほど長い歳月が過ぎてしまった。

 母を看取った後、IT系の企業に就職し、茨城から上京。ひとり暮らしが始まった。

 幼い頃より母から「これからの時代、男も料理するようになりなさい」と言われて育った。小学校では料理クラブに入った。学生時代、母が病に伏せると、実家で料理を担当した。レシートをとっておき家計簿を付ける習慣もまた、この頃の言いつけで始めたものである。

 冷蔵庫に食材を詰め込むのが嫌いで、こまめに買って使い切る。料理は独学で、たまにクックパッドを見るが、「画面で見たレシピは不思議とあまり覚えられない」と笑う。
 土日は軽く料理の下ごしらえをしておく。

 「絹さややもやしを下茹でしておくだけで、平日疲れて帰ってきてもちょっと味つけすればすぐ食べられますから。煮物なんてただ煮込んで置いておけば、勝手に味が浸みておいしくなるし、2~3日は持つ。楽で便利ですよね」

 前のマンションはコンロが一口だったが、今度は2口なのが嬉しい。前の部屋を契約更新しなかったのも、コンロの口数が理由だ。

 今はひとりには十分すぎるほど広い台所で、存分に料理を楽しんでいる。

 「会社の女性社員と、ヒガシマルのうどんだしの話で思いがけず意気投合したりして、料理は共通の話題が増えておもしろいですよね。この間、みんなで唐揚げの話になって、僕はこう作るっていったら“え? 唐揚げって家で作るものなの? 買うもんじゃないの?”って驚かれて。家によって違うんだなあと思いました。僕は自分で作った味だと納得できるので料理しているだけ。こうしなきゃいけないとは思っていません」

 料理は彼にとって気分転換であり、趣味であり、節約であり、「特別なことではなくて生活の一部」(住人)である。

 だから、凝った料理よりもっぱら日常の総菜を作る。それはまさしく、かつて母が作っていたものばかりだ。

 豚の煮物は、豚肉を水から弱火で下茹でし、しょうがを加えてくさみを取る。火を止めて、粗熱がとれたら鍋ごと冷蔵庫へ一晩入れる。固まった脂をとりだす。再び火にかけ、ゆでたまごとアク抜きをしたごぼうを入れ、醤油、砂糖、酒、みりん、しょうがで味付けして1時間コトコト煮る。

 そう、やっぱり男の料理というよりおふくろ料理なのだ。なんでも器用に作りそうな彼に次に挑戦したいものを聞いた。

 「グラタンですね」

 ほう、なんだかハードルが低そうで、チャレンジと言うほどのものではない気がしますが?

 「母はグラタンの素を使わずホワイトソースから作ってたんで。あれみたいに一から作るとなると、僕にとってはハードルが高いんですよネ」

 まだ一度も作ったことがない。挑戦する日はいつになるんだろう──。

台所のフォトギャラリーへ(写真をクリックすると、くわしくご覧いただけます)

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